虫歯の話

虫歯の話

「虫歯って、虫歯菌なんですよ」

かかりつけの歯科医の院長さんがそう言った。

この院長さんは、見たところ壮年黒髪の男性の先生なのだが、
女性のようなやわらかな言葉遣いをしていて聞くに優しく、
そしてすべての患者さんを苗字ではなく、下の名前で呼ぶ。

「それでね、〇〇さん。
虫歯とコロナって、ぼくからすると、すごーく似てるんですよ。」

院長さんは私の口の中をくまなく診ながらこんな話をし始めた。
「虫歯が完全になくなったって聞いたことある?」
「虫歯菌が殲滅された、とか、絶滅した、とかは?…ない、でしょう?」
「虫歯に関しては、完治したってことは本当の意味でありえないんですよ。やつらはパラサイト、つまり常にいるわけだから。」
「ね。こんなに医療が発達してるのに、虫歯って一向になくならないの。」

私は大口を開けたままであったので、
喉の奥の息づかいだけで「ふぇええ(いいえ)」「ふぁあ(はい)」と答えたり、
感心・興味を示そうと「ほえぇ」「ふぁ」などど珍妙な声を出したりする。
院長さんはそういった私の会話の努力をひとつひとつ見落とさず、逐一頷いてくれるので
そのまま話の続きを待ったのだが、院長さんはそこでおし黙った。

右上の奥歯を何か針のようなもので触られる。ちりちりとした刺激がある。
しばらくそこをまじまじと覗かれている気配もする。
目元をタオルで覆われているので何をされているのかは定かではないが、
カチャカチャ、カチャ、という前回の治療データを参照しているらしいマウスのクリック音だけはわかった。

はい、口を閉じていいですよと肩を触れられるのと同時に、
仰向けに傾けられた椅子がゆっくりと元に戻される。

 

「それでね、何が言いたいかっていうとね」

促されるままに口をゆすいでいる間に院長さんは私のそばの丸椅子に座り、まっすぐ私の目を見ながら先ほどの話をこう次いだ。

「やつらを元気にさせないように、口内環境をきれいに保ちましょうねっていうのがぼくが言いたいことなの、だからね。」

 

「毎日運転のたびにチョコレートを口に放りこむのはやめようネ。ビターチョコでも同じ。」

 

三か月前にすっかり治療を終え、虫歯がゼロになったはずなのに、
また虫歯が出来ているとのことだった。

「今ある虫歯で今度こそ最後にしましょう、〇〇さん」と念を押される。

その日は次の予約の時間も迫っているというので
また後日、治療に来ることになった。

 

帰りがけ、院長さんにまた声をかけられる。

「あのこたちもね、生き残るのに必死だから。〇〇さん、歯磨き、頑張ってね」

あのこたち。
あ、虫歯菌のことか。
一瞬反応が遅くなった。

院長さんは私の下の名前を口にするときの穏やかさとまるで同じようにして、虫歯菌のことも終始、「やつら」とか「あのこたち」と呼んでいた。

毎日顔を合わせているような親しい存在、そのとっつきやすい呼称に不思議な気持ちになった帰途だった。