矢印

矢印

春が過ぎ、いよいよ夏が来る。

私がそれと知るのは、手肌で感じる涼風の中にアスファルトの熱気が直にふれたときであったり、冬や春には見られなかった雲の形の名称を思い出すときであったり、わが家の雑木林(野生の庭ともいう)の草木や虫の勢いがいよいよ増して圧倒されるときであったり、あるいは散歩中の愛犬の舌が暑さに比例してだらんと横にのびていることに気が付いたときだ。

 

これらの些細なことを合図にして、私も視点をいれかえる。つまり、草草の中に夏らしさを見出さそうとする観察者の視点に。

 

車庫のそばには木槿がある。春先はつましく細々としているが、石楠花や牡丹が散り終えたあたりから精を出し、

あっという間に色濃い青葉を広げるやいなや、先んじて真夏の顔をしてそこにいる。

木槿。この東北の地を南国かと錯覚させるあの花に会えるのもそろそろだろう。

ハイビスカスに似た華やかな花でありがながら、草木はなく樹に咲く花であるというのが私には何とも好ましい。

 

そういうわけで5月も半ばを過ぎたあたりからこっち、車を入庫するたびに木槿やその辺りの草木の群生を見て回るのが私の習慣になった。そんな折である。

 

「あれ、あんなところに、あんな葉っぱがあったろうか。」

 

一目見たら忘れられぬような矢印の形をした葉っぱであった。木槿と同じ背の高さまで徒長しているところを見れば、きっと以前からずっとあったに違いない。(実際父に話したら、前からあったと首肯された)

 

錨の形にも似た葉は、同じ株の中でさえ一枚一枚形が異なっていて面白い。

きれいな線対称の矢印はほとんどなく、左側のどこかが欠けていたり、右側のどこかが尖っていたりしている。その逆もしかり。

茎から最も遠い葉の先端部が矢印の先のそれだと一見してわかるくらいで、その部分でさえ少しずつ描くカーブが異なるのだ。

一つの枝から三葉~七葉ずつ。生長すればさらに葉が増えるだろうが、とにかく同じ枝から生じていてさえそれぞれ表情が異なるのである。

指先にふれる表面はざらざらとしていて、山の生まれなのであろうとそれだけがわかった。

 

 

以来、私はこの矢印型の葉が気になって仕方がない。車庫のそばだけではなく、注意を向ければこの家の周辺や、もっとも身近なわが庭の中にまで、この矢印は生えていた。

木漏れ日のなか、今の季節だけのわが庭の植生を把握すべくのんべんだらりと過ごす平日の午前。この雑木林での時間が私の最高の息抜きなのだが、その中で私の目は必ずあの矢印の葉を見つけ出すのである。

 

 

「おや、今日はあちらの方向を指しているな」

「一枚落ちているがこれはどこゆきの矢印だ?」

「同じ枝から三枚の矢印。三つ子のうちのどの矢印を信じよう」

「あれ、こんなところにも生えている。君はこちらを指すのだね」

「風向きは南、けれど君の矢印は北東か」

 

いつの間にか、私は矢印に出会うたびごとにこのような不思議な会話を試みるようになった。

 

 

矢印。矢印。矢印。

確実に、この葉は私に何かを言っている。

 

 

「ワタシをよんで」

 

 

蝸牛、辛夷に続き、私も随分耳敏くなった。

〈ワタシを読んで〉。この言葉に気が付くより早く、私は既に読もうとしている。

あちら側の言葉に足を踏み入れることができ始めているのかもしれない。

 

いや、特徴的な形をしたただの葉っぱであると指摘されればもちろんそうなのだ。

けれど、あの矢印を目にするたびに、私はそれらの矢印が示す先は何だろうと考え、想像することをやめられない。

はじめは矢印が示す先の地べたの蟻や土蜘蛛、何やら名の知らぬ足のたくさん生えた虫など目の前の現実の空間の中からその答えを探っていたが、そのうちに、それはただの思考の習慣づけであって、この矢印とは私にとっての象徴であり、私が今見つけなければならぬただ一点をよくよく見つめさせるための力をもつためだけにそこにいることに気が付いた。

 

とすると、私は何を直視し進むべきなのだろう。

 

今年の春から私の身辺では小さな、しかし時間を経れば大きな渦になるだろうと予感する変化が起こっている。

思いがけぬ人々からの仕事依頼や、偶然や必然的に新たに出会った人、出会いなおした人がおり、それらの人々が私の思考思想にもたらす刺激たるや有難いことこの上ない。

ところがその一方で、私は周囲の人々から刺激をうけるがままにニコニコするだけの人間になりたくはないのだ。

私は、私自身の自分の特性が生かされ、個性が実現させる場として、その新たな環境に身をおくことを望んでいる。

 

このようなめまぐるしい変化の中で私はこの数週間、個人的な妄想と具体的構想/体制のあいだを行ったり来たりしながら日々を過ごしているわけだがそのたびに、事あるごとに、この矢印の葉が私の目の前にあらわれる。

ただ「それ」を指して風にゆられる矢印の葉。

 

矢印が指すもの。

何だ、何だ、何だ?

 

 

あるとき、ふと気が付いた。

この矢印は、決して優しくはない。この矢印は決して「こちらに進むのが正解です」とご丁寧に教えてくれる類の矢印ではないのだ。

国道の青い看板、地下鉄乗り換えの矢印、順路はこちら、エレベーターはあちら。→→→

方角・方向、道のり、入口出口。足の爪先をどちらに向ければ目的地にたどり着けるのか、その最短の選択をしたり顔で示す矢印が世の中には五万とある。

 

しかし一方で今目の前の、私のこの矢印は、その百倍は優しい。

「〈それ〉を見なさい」「〈それ〉を知りなさい」「〈それ〉を見極めなさい」

「それ」を示すばかりで肝心の答えは教えてくれないが、この矢印はそこがいい。

〈それ〉の解はすべて私自身に委ねるのみ。自分にできることはここまでだ、と言わんばかりの潔さ。

 

 

自問するのだ。ゆるがぬために。

私は何を見なければならないのか。常にそう問い続けること。

言葉になっていようがいまいが、〈それ〉があるのなら信じて進め。

 

導かれるようにして、しかし、自分で選びとって私は今日も仕事を始める。

この矢印は、私の指針、羅針盤。

 

あえて〈それ〉をここに言葉で起こさなくとも、まさか不義にはならないだろう。

答えは私自身が懐中してさえすればいいのだから。