ムラサキウンラン

ムラサキウンラン

この春から県の文化事業の立ち上げに関わっているのだが、7月を目前にいよいよ夏本番という今、ようやく一つ目の山場が来たようだ。

これまでの素案をまとめた企画ベース案はお任せクダサイと自ら請け負ったので、ここ最近は(心持ちとして)ノートとペンだけ尻ポケットに突っ込んで、飲むように食むように自分の言葉を広げる時間を過ごしている。

構想 と 妄想。
構想=私たちの手が届く限りの具体的な進捗共有。
妄想=こうなったら面白いだろうなという夢語り。
この二つの間を頭の中で行ったり来たり。
分別し、切り離し、展開させるなどして。
これらを対等に置きつつ、同等に置かぬ。気を付けないと、これがなかなか難しい。

先日、祖父の背中について歩いたミニトマトの苗の剪定にどこか似ている。

腰より少し低い位のミニトマトの苗を前に、祖父の見様見真似で私もそれらしい脇芽を摘むのだが三度に一度は間違えてしまい、手を止められる。
ひと目見たところの芽の長短や葉の大きさで判断するのではない。

「成長点」

これを見定めることが重要なのだ。
天にのびるこの一点の矢印さえ見誤らなければよいのだと。

私の頭の中にも剪定バサミと支柱立て。
構想と妄想の往復をくり返すうち、
摘むべき部分と太く育てたい根幹の部分が段々顕になってくる。
脇芽の思考やアイデアは隅におき、あるいは時機を待つ。
その代わり、この事業を活かしきる「成長点」の矢印とその方向を見極めるということ。

考えることが多すぎるので息抜きがてら、愛犬とともに雑木林たる庭に出た。
花よりも照葉が旺盛なこの季節、小さいながらも可憐な彩りをそえるのはひょろりと長いリナリア(ムラサキウンラン)だ。

茎が一度も分かれず誰が見ても成長点が一目瞭然のシンプルな形状である。君らは何も考えずただただ真上にのびればいいだけなのだろう楽でいいなあと謗りたいような気持ちになってあわてた。
やはり疲れているらしい。
当の植物にとって楽であることなどあるものか。
風にゆれるに任せるリナリアの、その軽やかな終の境地が今の私には羨ましくて仕方がない。それだけのことを自覚もせずに言い放とうとするなんて。