歯みがき粉

さて、そろそろ寝るかと鏡の前に立って歯ブラシを持つ。

それから歯みがき粉。

のはずが、なぜかどこにもない。洗面所の床にもシンクの下にも見当たらない。

ないものはない。深夜も過ぎていて探し物の気力はない。

どうせ翌朝思いがけないところから出てくるだろうと

別の歯みがき粉を使って済ますことにする。

 

それからすぐのこと。探していた歯みがき粉が家の廊下の暗がりにぽとりと落ちていた。

確かに私は家の中でも気が散漫なので、あらゆるものを思わぬところに置きっぱなしにしたりする。

が、この歯みがき粉。一向に覚えがない。あれ、もしかしてこれってこわい話…?

いえいえ。理由がわかりました。

 

さかのぼること数時間前。

2階の部屋で片付けなどの用事を済ませ、30分ほど経ってから階下におりるとソファに寝ていたはずのいちほがいない。

耳を澄ますと、畳の間のほうからぱたぱた落ち着かない足音がする。

目を覚ましたら私がいなくなっていたので、どこにいったのかと家中を探しまわっていたらしい。

名前を呼ぶと、縁側につづく木戸からひょっこりと顔を出し、おかしな真顔でこちらを見ている。

2階にいたんだよ、と声をかけて両手を広げると、安心した顔でニコニコしながら駆けこんできた。

 

それで、この歯みがき粉である。

私とのかくれんぼでどうしても見つからない時や、どんなに吠えても起きてくれない時、

知恵者のいちほは「道具」を使う。

私が思わず駆け寄らざるを得ないような絶妙な代物を選んでくわえ、

はぐはぐかんでますよーとわざわざ音を鳴らしながら家の中を練り歩くのだ。

自分で言うのも尺なのだが、これが抜群に効き目があって

いちほの意のままに私はカーテンの陰から姿を現すし、布団をはいで飛び起きる。

時にはくわえていた道具と「交換(取引のことばもすっかり覚えている)」でおやつももらえるので、

いちほにしてみれば一石二鳥である。

 

ところが、先ほど2階で作業をしているあいだは、

どんなに「はみがきこですよ」のアピールをしても飼い主が姿を現さない(そもそも全然聞こえなかった)。

あれ? あれ? あれ?

いない…!ということで、歯みがき粉をくわえているどころじゃなくなって

ぱたぱたあわてて探しに出たのであろうと、そんないちほがありありと見えた。

 

いとおしいなあ。10年という長くみじかい密な年月の記録として。