名前をつけた日

 

2016年8月23日。

遠く離れた犬舎で生まれた1頭の犬が、突然「あなたはいちほ」と名を与えられたこと。
これって実は、そうそうあり得ないようなものすごいことなのではないかしら。
眩しすぎる流れ星がいきなり自分めがけてまっすぐ飛んできたみたいな衝撃。
明るすぎて、景色がすべて変わって見えるくらいの。

生まれてから2ヶ月間、母犬からも名前を与えられることなく、
人間の手も自分のからだを触れるばかりで名前はない。
そしてただゆらゆらと人間用システムの中で流されるまま不安げなままに運ばれてきて、
到着先が家かと思えば、からだより少しだけ大きなガラスケースの中に入れられる。
人間の手がまた、ここにいなさいと言ってくる。

流れ星と出会う前まで、どれほどの人間に触れられてきたかはわからないけれど、
やはり名前を呼ばれることはなく、常に不特定のだれかれに声をかけるのと同じように
「食べた?」「おしっこした?」「いいこにしてた?」といつも上の方で声がする。

でも、この世界に生まれて58日後。
自分を抱っこした人間のうちのひとりが、翌日自分を抱き上げるためだけにもう一度現れて。
そして、店員さんに気付かれないくらいの小さい声で「今日からおまえはいちほ」と囁かれてから、
つぶれるくらいにぎゅっとされた日。

あれから、おまえのなまえはずっといちほ。宝物のなまえになるね。

🌼

およそ10年前、当時11才だったヨークシャーテリアのぶんちゃんのおやつがなくなったからと最寄りのペットショップに立ち寄った。
母が前日にぽろりと「お店にアイリッシュセッターの子犬がいたよ」と言っていたのも気になった。
その時、母自身は言葉の端の、文脈の末端の末端の末端ほどの何気ない会話として話題に出しただけであったし、
私自身も、へ~だったらおやつ買いついでに見てみたーいという野次馬気分で出かけたのだった。

が、店員さんにどういう風に誘導されたのかはもはや忘れたけれど、
入店して30分後には私はアイリッシュセッターの子犬を抱っこしていた。
今でこそ、店頭販売に対して非常に思うことはあるが、当時は何も知らなかったのである。

第一印象は、くにゃくにゃ。
大型犬の子犬ってこういうものだったっけ?
されるがままで、力みがない。
変な話、自分というものが一切ない。くにゃくにゃくにゃくにゃ。
所在なさげで、やわらかい。

ほう、アイリッシュパピーとはこんな感じなのね。かわいいね。
先代ルシータ(黒ラブ)が亡くなって2年ほど経っていたから
大型犬の存在感が懐かしいわ。なんてそんなことを話していた気もする。

とはいえ、その日はただ礼だけを述べて、そのまま帰宅。
冷静に考えて、今大型犬を迎えるなんて無理だと思ったから。

そういうわけで、その日の夜は
一日限定の胸の高鳴りに過ぎないからと自分の気持ちを片づけて、
寝床の暗がりの中で、今日出会ったばかりの子犬に名前をつける妄想をした。
はじめましての子犬に今生の別れを惜しむための儀式である。

  そうだな。つけるなら平仮名がいいな。

  平仮名で、三文字。       かわいい。

  一番うしろの字から決めよう。

     「の」「ほ」「か」「あ」「お」「ら」「め」

  五十音と濁音・半濁音全部を思い浮かべる。

  順番に検討するだけでもとてもたのしい。

  そうだな。 「ほ」がいいな。ほっとするし優しい響き。

  とすると、前の二文字はどうしようか。結構限られてきそうだけれど。

  布団に入ったまま、枕の上にのせた頭の中で気分がのるままに一字一字をめぐらせる。

  〇〇ほ。〇〇ほ。

  それなら、最初の文字は「あいうえお」のどれかがいい。なんかやわらかくて、親しみがあって。

  「あ〇ほ」「い〇ほ」「う〇ほ」「え〇ほ」「お〇ほ」

  そうだなあ。

  「い」だな…。「い」がいいな…

  い〇ほ

  今度は真ん中の字に「あ~ん」を当てはめて…

  なるべく意味とかもこめられたらよくて…

  だとしたら、「一つの…」みたいな…。いち…いち…?

こんな感じで、その日の夜遅くに名前だけの「いちほ」が爆誕したのだが。

問題はここからである。
名前をつけてしまったら気持ちの整理がつくどころか全くもってその真逆。

出会ったばかりの子犬のための運命的な名前を見つけてしまった興奮で

何かのお告げでもあるまいに、「あの子はいちほだ!」と世の確信を得てしまい。

すっかりそれしか考えられなくなって、あとは前述の通りで今に至る。青天霹靂。

もちろん、その後の苦労話や多くの反省のネタに尽きないのは明らかなのですが…。

それでも、あの日の夜、

はじめに「いちほ」という三文字がこの世界に生まれたこと、
そしてその名前こそが私といちほの物語を引き寄せたのだなと思えば言葉にできぬほど感慨深く。

いちほ、10回目の誕生日。
あの日から毎日毎日、この名前を呼んでいる。
これからもずっと特別な名前を毎日毎日呼ばせてね。いちほ。

辞書にのせる準備もしとこう。

いちほ《名詞。犬の名。特に二宮の》
1、一粒の穂が万倍もの美しい稲穂になるように、いちほ。
2、一歩ずつ一歩ずつ、いちほ。
3、一日一回ほっとしたり、ぼーっとしたり、いちほ。

 

よく見たら、彩雲でした。
名前をつけた日