布団が敷かれた十畳間は、自然科学のいろいろな本が雑多に積み重ねられている私の好きな空間だった。
先日泊まった宿部屋の話である。
一年に一度は必ず来ているリピーターなのであるが、
これまでと違うのは、部屋全体に蚊帳が張ってあることだった。
今年は特にアブがよく出てひどいらしい。
蚊帳!
ああ、懐かしい、懐かしい。小さい頃、祖父母の家に泊まったとき以来の憧れだ。
夜半過ぎ、私は蚊帳をいそいそとめくりあげ、自分だけの秘密基地に忍びこむように
麻で編まれた空間の中に自分のからだをすべらせた。
夜闇のなか、蚊帳に入ると私のほうから外の様子はほとんど見えないのだが、
蛍光灯に照らされたこちらの姿は外部からは丸見えだ。
虻から肌は守れるが、あられもない寝姿が人工光の中で四角く切り取られ、晒されるかもしれないとは…
一長一短の忍術使いの気持ちになった。
それならば、とスイッチの紐に手をのばし
明かりを消せば蚊帳の外からも内からも私の姿は誰にも見えない。よかった、忍術は大成功。
ところが、寝床に入って半刻経ってもいつもより寝付きが悪かった。
暑いのだ。
町中ほどではないにしても、この山の中でさえ日中の余りある熱気が蟠っていて寝苦しい。
縁側につながる障子を開けようと、よじよじと布団の中から這い出てそのまま
蚊帳下から身をよじらせる。
「気を付けて。蚊帳から出ると妖に姿を見られるかもしれない」
などと、童心のような忍術の妄想を齢四十の現実世界に持ち込みながら。
(寝相が悪くて左足だけ蚊帳から出てたら、耳なし芳一の耳の如くになるかもしれない)
障子を敷居に滑らす音を聞くだけで、爽快だった。もう涼しい。
森で冷やされた外気が部屋の隅々まで流れ込んできて空気が動く。気持ちがいい。
もう少し開けたらもっと…とおもったところでふと気づいた。
ひらいた障子の衝立柱にオオカミ(大神)の絵が描かれた護符が貼ってある。
「四本足除」だそうである。
こちらと、向こうの障子の方にも貼ってある。
〇〇神社とあるが、墨字で書かれた雨冠の下のぐにゃぐにゃがつぶれて
正確に読むことはできなかった。
この手のお札は、オオカミの代わりに鬼の絵が描いてあるものならよく見かけるが
これは初めて見た。どこ由来のお札だろう?
害虫害獣、災厄の有象無象を追い払ってくれる護符である。
月明かり、白い紙の中でゆらゆらほのめくこのオオカミは、いかにも仕事ができそうだった。
部屋は涼しくなったが、障子を開けて護符の結界を解いたのが良くなかったのだろうか。
寝床に入ってうとうとする間もなく、
屋根の上で何か獣が走る音がした。
たたたたっ たたたたっ
この宿の愛猫が何かを追いかけているのだろうか、と思ったが
足音から察するにあの猫よりは体重がありそうだし、身のこなしもずいぶん軽やかなようである。
たたたたっ たたたたっ たたたたたたたっ
いや、屋根の上ではないのかもしれない。
もしかすると、天井裏…だろうか?
ただでさえ暗がりだのに、蚊帳の網目の細かさで、天井の木目すら靄がかかったように全く見えない。
天井板を挟んでいるだけだとしたら、意外と近くにいるのかもしれない。
たたたたたっ たたたっ たっ
たたたたたっ たたたっ たっ
たっだん!だん!だん!
駆け抜ける足音だけならまだいいが、真上でジャンプでもしているのか、音も大きくなってきた。
姿が見えない分、緊張しながら耳を澄ます。
だん!という大きい音がするたびに、つられた蚊帳の一角が大きくゆれる気がしている。
もしや蚊帳のすぐ真上にいるのではないか
いつか突き破ってくるのではないか
距離だけでなく、まして正体がわからないというのは、なかなかこわい。
そうだ!やっぱりあの猫のせいにしよう。
元野良猫にしては小太りだが、動けないことはないのだ。
現に、彼が仕留めた森のモモンガや小鳥を何度も見たことがある。
きっと、屋根の上で狩りの遊戯をしているのだ。
見えない何かに姿を与え、安心を得るのは神話・民話の源だ。同じ道理であるならば
何万年分の人類共通の対処法に私も頼ることにした。
たたたたたっ たたたっ
しばらくすると、ニャーと言いながら白地に斑っこのこの家の愛猫が蚊帳の中を訪ねて来た。
私は少しだけびくっとしてから、なんだお前かと声をかける。
その猫は勝手知ったるかのよういつの間にか蚊帳を抜けてきて
私の布団の横でごろんと寝転んだ。
撫でながら、彼の体型や肉づき具合をみて、ついでに口元(血や何かがついていないか)も確かめつつ
頭のすみで、ううむやっぱりこいつではない気がすると思ったりする。
イタチか何かだったのかしら。
私の頭のなかを読むように、もう一度ニャーと鳴いたこの猫の
あくびとともに見開いた琥珀色の両目と目が合って
感情が読み取れなくておののいた。
追及はすまい。猫だ猫だ。
うやむやであることを大いに是として
いろんな妄想を呑みこんだ。