お盆だった。
わが家では毎年8月15日には必ず和尚さんをお呼びして、お仏壇に読経していただく。
代々の長男(祖父や私の父も)が住んできたこの家は本家にあたるので当日は県内や時には遠方の親戚がご先祖さんに手を合わせるために揃いも揃ってやって来る。
だから、盆の連休が始まると家中大掃除するのがわが家の毎年の習わしだ。一年で一番忙しいといっても過言ではない。

この連休を利用して旅行だの何だのというのは生まれてこの方、一度もしたことがない。
羨ましいと思う反面、これが当たり前だと思っているので、
お仏壇をほったらかしにして遠出というのも今となっては気も引ける。

ご先祖さんをお迎えするための仏壇の掃除は、この数年、私の担当になっている。
手がけなければならないことは家中、山ほどあるのだが、もくもくと一つのことを任せられた方が好きなので、どたばたとせわしなく家磨きに明け暮れる両親や祖母を傍に見つつ、ただだんまりと、仏壇の上から下まで、気が付いたところは隅々まできれいにする。

普段から開け放たれている仏壇の扉を改めて丁寧にふき、
ほこりがたまりにたまっている箇所にはおっかなびっくり奥の方まで手をさしこんで、端切れ布でふきとる。
今年の端切れ布は、着古した冬用肌着にじぐざぐ鋏を入れたもので、
ナイロン製の生地は握っているだけで熱をもっているように感じられ、夏の大掃除には不向きだと、肚の中で人知れず文句をたれていたりした。爪のささくれにひっかりやすいし。

ま、ともあれ、数年同じことをくり返していれば、段取りもよくなるというものだ。
鳥や植物が彫られてある最上部の透かし板から下部へとほこりを落としてゆき、
その後、お位牌やお花、供え菓子などが置かれている階段のような棚も、一段一段きれいに拭く。
それからあらかじめ除けておいたお位牌や小さな仏像、飾りの類も拭いてやり、供え菓子は今年のものに取り換える。

段取りはいいが、要領は悪いので、ここまででだいたい1時間ぐらいかかるのが常だ。
それに加えて、今年は思考がずいぶん深くまで入りこんで、頭の中で長らく寄り道をしてしまったので時間がかかってしまった。

きっかけは、お位牌を手にとって端切れで汚れを拭いているときだった。
今まで気にかけてみたことはなかったけれど、今年は何となく、この造りに目が留まったのだ。

いつ作られたものだかはわからないけれど、わが家に3つあるお位牌は、いずれも古いものである。
土台、支え、戒名が書かれてある板と3~4段に分かれている。
いずれにも彫刻刀や錐で素朴な飾りがほどこされてあり、全体に黒がぬられ、その上から金色が重ねられている。戒名などの文字は、筆書きである。

名前も知らぬ人(おそらくはお寺の方)の手の動きが垣間見えるようなつくりに私の心は至極惹かれ、しばらくは当の目的を忘れ去りながら、
その造りを眺めるだけでは飽き足らず、組み木の面白さに心躍らせ、
組み立てたり離したりして観察していた。
(何とも罰当たりなことである)

合間に母が、まだ終わらないのと声をかけてきたが
様子だけは真剣であったのを目に留めると私の返事を待たずに立ち去った。

再び向こうの部屋から聞こえてきた掃除機の吸引音が聞こえなくなるくらい
満足いくまで矯めつ眇めつ楽しんだあと、
私は残り1つのお位牌にも手をかけた。

この位牌は、3つのうちで一番新しい。
組み木や木彫りの様子などは特段変わりないのだが、
戒名板を1枚たててあるだけの他2つとは異なり、
これは3センチ弱立方の木形が支えに収まるような形をしていて、
その上に屋根(のような形のもの)がついていた。

正面には、10年ほど前に亡くなった祖父の戒名が見える。
けれども手にとると、その後ろの方でも音が聞こえた。

私の出来心はうずいた。
見る限り、これも組み木だ。ということはきっと、この屋根もとれるということだ。

今思えば、私は何か、これを開けたらまた目新しい刺激があるのかもなどと思い違いしていたらしい。
何が入ってあるのか、どのような細工が私を待ち受けているのか、すっかり期待を膨らませていた。
位牌であるとわかっちゃいたのに。

屋根部分は力ずくではとれなかった。
けれどはずせそうな手応えがあったし、何より相手はしなやかな木である。
右に左にずらす力を加えながら引き抜くと、キーィというかすかな音をたててすんなりはずすことができた。

中には、薄い板が数枚入っていた。
言わずもがな、戒名板である。
木形の内部がびっしりうまるほどの枚数ではなかったので、
戒名板に外部からの衝撃が伝わりにくいよう、古新聞の一部が丸めて詰め込んであった。
いつの時代のものかと広げてみれば、日付がわからない。
「余禄」なる部分の記事を頼りに見当してみようと思ったが、
当時の政治体制を憂う内容の人名の中に、私の知る名はない。
早々と諦めて、大雑把に丸められていた新聞を元の通りに戻した。
大雑把ではあったけれど、亡くなった方たちの名が書かれた板が傷つくことがないよう、頑なすぎず、頼りなさすぎずのいい塩梅に丸められてあり、それに気が付いたとき、かつてこれをつめた方の優しさが感じられるようであった。

戒名板を一枚一枚、丁寧に取り出してみる。
正面の祖父の他、祖父の両親の名が書かれたものが1枚ずつあった。
ここまでは私も知っている。
父や伯母、祖父母から何度か聞かされていた方たちだ。曾祖父母にあたる。
無論会ったことはないのだが、小さい頃は仏壇に常に写真が立てかけてあったので、顔は知っている。

ところがあとの数枚は、生前の名前を読んでもぴんと来ない。
どなただろう?

1枚は、3才にならずに亡くなっている女のこの名であった。

ああ、そうだと思い至る。
このこは、祖父の妹であったと。
私の弟がまだ幼い頃、その姿に亡くなった妹のことを重ねてよく目を細めていたと、 母から聞かされたことがある。
戦時中に亡くなっている。

私はもう一度、ああ、と声に出し、
このお位牌を丁寧に拭きあげた。

残りの2枚も、名字や亡くなった生年月日などから推察することができた。
1枚は、祖父の母の、つまり曾祖母のご両親の名前。
もう1枚は、祖父の父の、つまり曾祖父のご両親の名前。
婿入りであった曾祖父のご両親の名字は、遠く沿岸をルーツにする名字であった。

この4人の方には、初めてお会いした。
お会いした、という表現が奇妙なのは十分に心得ているのだけど、
初めて名前を知った、というだけでは何か足りないような気がしたので。
いずれも明治後期から昭和初期に亡くなっている。

ああ、途方もないな、と思った。

歴史の書物でしか知らぬ時代であっても生き抜いてきた人がいるのだ。
しかもその血をわたしのからだにつなげるようにして。
この当たり前のことが、「私」という今生きている自分の体や思考を通して
まざまざと体感させられた。

奇妙で現実感がなくふわふわ浮き足だっているのに、
今ここに確実に生きている実存在としての自分を無にすることなど到底無理だから、結局現実に引き戻される。
私は、このゆさぶりにしばし、衝撃を受けてしまった。

思いついて立ち上がり、小さな紙とペンとを持ってくる。
そしてまた座り込んで紙を広げた。

畳のせいででこぼこしてしまうがゆえに決してきれいとは言えない字で、
ひとりひとり名前を書いてゆく。
祖母や親戚の誰かに話そうというのでもなく、
人の名を自分の手で書き刻むことが、身体的感覚や体験として必要なように思ったのだ。
それから少し迷って、亡くなった年も書き添えた。

この曾祖母の両親にもまた両親がありまた両親があり、
この曾祖父の両親にもまた両親がありまた両親があり、
ある時代に生まれ、生きて、死に、
その両親にもまた両親がありまた両親があり…。

ここまで考えて、私の想像力は根をあげる。

仏壇の掃除の続きをする。
戒名板の一枚一枚を磨き、お位牌の木箱の中に収め、仏壇の定位置に戻した。
お焼香用の小机の上も、燭台や香炉、りんに至るまで
気が付けたことはすべてきちんとやった。

きれいになった仏壇は気持ちがいい。
手を合わせて、先ほど出会ったお位牌の中の方々に思いを馳せる。
「どうもありがとう」というのがふさわしいのかどうか迷ってしまったので、
ただ、「私もここで頑張ります」とだけ伝えた。
りんの音を遠く長く、恒久まで響かせたくなる理由がこのとき初めてわかった気がした。

 

盆