おそらく私は、何かから救われたのだろうと思う。

 

昨日の夕方過ぎのことだ。

用事を済ませた後、穂の名を野辺で走らせてそのまま車に乗り込んだ。

11月下旬、日中の秋の陽の温かさが日没とともに冷え込んで霧に変化する日々が続いていた。

昨日も然りで、車を走らせ始めた頃にはもう、霧が出てきていた。

この時期の16時は既に薄暗く、霧のせいで空こそ見えないが、すぐにでも真っ暗になるだろう。

ただでさえ山道だ。いやな時間帯に、いやな霧。

私はどきどきしながら帰路をたどった。

 

霧はますます深くなる。あたり一面真っ白だ。

わが命の訴えよろしく、ここにいますからねとフォグライトを灯す。

心もとないが、ないよりはましである。

が、意外にもすれ違う対向車の3台に1台は無点灯であったりで、それが大型トラックだったりすると

非常にどきりとして緊張感が増す。

いきなり目の前に現れた――と感じるほど、前方不覚なのである。

 

ハンドルを握る手や肩・首にも力が入る。

気を付けて帰ろう気を付けて帰ろう。念じながらそろりそろりとロースピードで運転していると

突然後部座席で微睡んでいたはずの穂の名が

ぐいぐいと前部座席に来ようとしてくるではないか。

ただでさえ、見通しが悪くて危ないのだ。左手で努めて押し戻そうとするが、

何故か知らないがこのときの穂の名は諦めが悪い。

(前部座席への)侵入防止用の囲いをぐいぐい乗り越えて、ひょいと助手席にまででかい体を移動してきたのであった。

私はというと、こんな状況で路駐をするなんて…と内心どきどきしながら、

ハザードランプを点滅させ(倍に光れ!倍に目立て!と願いながら)、車をできる限り路傍に寄せた。

シフトレバーはP。

 

若い時分ならともかく、この6~7年運転中にこんなことをしたことがなかったので

頭の中ではおかしいと思いつつ、ここでも私はまだ、

穂の名のハーネスや首輪を掴んで後部座席に無理やり戻そうと頑張っていた。

が、どうにもこうにも穂の名も頑張るのだ。

助手席に犬用おやつがこぼれていたか?こぼれていない。

あ、わかった。私が飲んでいたのむヨーグルトか?好きだもんね、じゃ、あげるあげる。別にいらない。

(そもそも、前部座席に食べ物があるからといって、こんな行儀はしたことがない)

 

押すのも駄目、引くのも駄目、食べ物でつるのも駄目…と

選択肢が削がれているあいだに、いよいよ穂の名はさらに奇妙な行動に打って出た。

なんと、運転席の私の真上にやってきて、すっくと頭を上げたまま、ずっと外に耳を澄ましているのである。

体調が悪いのかと疑って、赤毛の体躯に手と頬をのせてみたが

心拍はいつも通りであるし、パンティングも出ていない。

いたって正常に、自分の判断で行動しているようである。

 

実を言うと、「虫の知らせ」という言葉が私の頭の中でよぎっていた。

運転席にまで来るなんて、ちょっとこれはどうかしてる。

すぐそこに、いつも与えている大好物のヨーグルトだってあるのに、それには目もくれない。

これはおかしい。

穂の名と9年も生きている私だもの、この瞬間のおかしさは私だけがわかる。私しかわからない。

だからひろってあげなければ。

 

こんなにも霧なのだ。よくわからないが、穂の名を信じてみよう。

私はついに、そう決めた。車を車道から外れたより安全な場所に数メートルだけ移動させ、

あとは穂の名の気が済むまで運転席に居座らせることにした。

穂の名が怯えているわけではないからこそ生まれる緊張感が、車内にびりびりとこもっている。

何に耳を澄ませ、何を考えているのかはわからないが

私の相棒が何やら変なので、私は穂の名のお尻に頭をのせて時が過ぎるのを待つばかり。

 

おそらくたった5~10分経った頃だろうか。

穂の名の身体からふっと力が抜けて、特段私から声をかけることもないままに

何事もなかったかのように自分から後部座席に戻って行った。

そこでも厳戒体勢になるかと思いきや、すぐに爆睡の恰好である。

キツネにつままれた気分とはこういうことを言うのだな。

 

そのあとは、

何だったんだ…何だったんだ…何だったんだ…という判然としない疑問ばかりが湧いて出て

意を得ないのは自分ひとりだけだと混乱するばかりであったけれど、

穂の名が退いたのなら多分もう運転はしてもよいのだろう、と思い直し、けれども

事が過ぎたのかどうかもやっぱり結局わからぬゆえ、

大変な安全運転で帰りの道をゆっくり帰った。

 

おそらくドラマや映画であれば、「だからあのとき…」のような答え合わせができるのだろうけれど、

現実渦中の私には何もかもが不可解であるばかり。

だが、きっと、穂の名に何か助けられたのだろうという確信だけがあり、

帰宅後、たっぷりハグをして、大好物のおやつをいつもよりましましでごはんに与えてやったとさ。