社会的動物

 

犬は「社会的動物」だとよく言われる。
人間の社会や人々の生活に寄り添い、溶けこむようにして生きることができる数少ない動物のひとつとして。

そうだろうか、と私は思う。
紅茶をそそいだ大きなマグカップを手にしながら。陶器ごしの湯が温い。

金を得るために連日仕事をしてきた私は祝日の今日、やはり疲れていた。もっと眠っていたかったが、今は二頭の犬の飼い主であるのでそうもいかない。それぞれのハウスから出してやり、飯もやらないといけないし、排泄もさせなければ。

この2頭はまだウマが合わないらしく、私がうまくやらないとまだ吠え合ってしまう。似たもの同士で負の共鳴をし合っているところがある。
今日も朝から、穂の名と葉の名はワンワンぎゃーぎゃー言い合っている。8時は過ぎているが、祝日の朝だ。まだ寝ている人もあるだろう。そう思うと、このやかましさは近所迷惑に違いない。内心焦ってとめる。とまらない。とめる。とまらない。ようやくとまる。

先住の穂の名は普段はすこぶる聞き分けがいいのだが、葉の名が来てからこっち、飼い主が自分のものだけではなくなってしまったのですねている。それに先ほどのような小競り合いの多くは、葉の名が自分本位につっぱしることから始まるのだ。穂の名からすればそりゃ面白くない。

などとまだ昼前だというのに、今日もどっぷりくたびれた。一通りの朝のルーティンが済んでようやく今、紅茶を飲みながら一息いれている。

社会的動物。
どう考えてもこの群れの中では、社会的動物の究極は人間のこの私一人でしかない。

働きにでることなく、人の目も気にすることなく、区切られた住居に生活のすべてを依拠することなく、ただ山の中で三匹、私と穂の名と葉の名だけで過ごし生きられればなあ。今日起こったすべてのことは何も問題にならないというのに。

私たちは気ままにどこまでも山を駆け、狸やアナグマ、鹿たちと同じ類いのものを食い、夜がきて暗くなればただ眠る。そして朝が来ればまた山を駆ければいい。

不自由を感じる。