犬は、しばらく家の中をうろついていたが、
ちょうどいい硬さの寝床が見つからなかったらしく
やがて私の足元の床板の上にどたっと寝転び始めた。
盆についてのこの本は短く簡潔な文章が続き、章分けも明確なので
すぐに読み終えてしまった。
私は右に左に本を傾けてそれぞれのページを眺め始める。
写真が多く、楽しい。
ページのほどよい紙の厚さは私の意図にそって気持ちよくめくられていく。
死んだ者たちが生者にまじり、穏やかに、そしてにこやかに参加していそうな各地の盆の写真たち。
盆と言えば、思い出すことがある。
ずうっと昔。晩夏のこと。
私の家の仏壇に供えられていた菊の切り花。
そのうちの一本から根が生えてきたことがあった。
ご仏前の花でそのように自分の時間を引きのばした花は初めてで、
私は母や祖母に見せに行った。すると二人は口をそろえて、
「根が生えてきたのなら捨てられないね、ましてお仏壇の」
などと言う。
水で茎がふやけきった他の供花はそのまま捨てたが、その菊の花だけは庭の片隅で生かすことにした。
二人は仏壇の花がそうなったのだから、何か意味があるのだと強調し、
死なせてやれないと言った。花びらの一部は既に茶色く枯れてはいたが。
幾千もの時間的距離を隔てた今は、こうしてつづりながらも疑問が残る。
根は根。仏壇は仏壇。死者は死者。そこに因果や物語が必要だろうか、と。
本当は何一つ連関せず、ただ別々に存在していただけではなかったかと。
ところが、その当時の私はこの死生観なるものが妙に自分の心にしっくりときて、
シャベルと菊を手にして言われるがままに庭に飛び出した。
育てられた環境が私の死生観をも培った。その忘れられない出来事の一つとしていまだに記憶にある。
いつか述べることになろう個としての「選べる死生観」と対比させる形で、
これを仮に、共有された「土の死生観」とでも呼ぼう。
そして今。
私はどういった盆を還すことができるだろう。あるいは死生観なるものは。