幸福 いつかの手記より

幸福 いつかの手記より

早朝、おそらく五時半を過ぎたあたりだろうか。目を覚ました赤犬が、私が眠っているソファのそばに移動してくる足音がして、くんくんくんくん私の顔の匂いを嗅ぎに来た。硬いヒゲが顔中をかすめてちくちくする。尻尾はパタパタパタパタ際限がなく、朝から何て嬉しそうなこと。私は目を閉じたまま「おはようさん」とか「起きたのかあむにゃむにゃ」とか口先だけで赤犬の機嫌をとりながら、眠りを断行しようとする。

赤犬からすれば、五年連れ添った主人の二度寝の悪癖は想定内なので、物分かりよくすぐにあきらめ、寝ている私のすぐ真下にどかりとふせた。その気配をうけて私は一安心し、とろとろと保っていた意識をやったと手放しそのまま深く眠りに沈む。

ところがしばらくすると、ひとり嬉しそうな赤犬の息遣いが聞こえてくるではないか。へっへっへっへっ。へっへっへっへっ。表情を見ずともわかる。舌を出して上機嫌ににこにこしているようである。かわいいやつめ。まどろみながら息遣いの音を頼りに赤犬がふせている辺りに手をのばす。すると、ちょうど手が届くところに赤犬の少しとがった頭があった。眠気の私のからだは重い。だらりとした腕の先の手のひらで赤犬のとんがり頭を適当になでてやる。赤犬は腹を出したり、脇腹もなでろと体勢を変えている。半分寝ながらでもその様子がよくわかるのは、赤い巨体をごろんごろんと寝返らせる大げさな音がするからだ。だから赤犬のからだを撫でてやる。半分は夢うつつに無意識で。そんな怠惰な手のひらでも、触れてもらえていることが嬉しくて赤犬がさらに喜んでいるのが伝わってくる。こんなことでいいのだな。幸せに浸りながらまたもや眠る。

そのうち私の手は赤犬のからだに触れさせたまま動かせなくなった。何せ寝起き前である。脱力してしまい、これ以上相手をするにも体が重くて動かない。赤犬は主人のそれを察したのか、ごつんと音をたてて頭を床につけた。四肢をぐぐぐっとのばし、寝相をととのえて赤犬も二度寝を決めこむ。

すー、すー、すー。大型犬の呼吸は深い。安心感と至福を得て、私も一緒になって眠りに引きずりこまれていく。すー、すー、すー。次第に寝息は私の寝息と重なって。すー、すー、すー、…。

 

寝すぎたかもしれない。眠りが遠のいていくにつれ、「ああ、そろそろ起きないと…、飯をやらないと…、庭に出して排泄させてやらないと…」と現実生活の思考が動き始める。無精に勢いをつけてからだを起こし、赤犬を探す。台所へ行っていたずらしてはいないだろうな。けれども赤犬はほんの数時間前と同じく、尚も私の真下で横たわったままでいた。目が合う。待望の私の起床。期待と嬉しさでその両目はきらきらと輝いている。

「おはよう、穂の名。」

両手を広げて赤犬を迎え入れる。いとおしい犬は全身をふりふり躍らせて愛をだばだばと溢れさせながら私の懐に飛び込んでくる。

出会ってからずっと、毎日毎朝くり返す儀式。今日もまた、眠りの海をこえておまえに会えてうれしいよ。