うみやまのあいだのひとしずく④

 

しばらくのあいだ、ひとしずくたちはぽかぽかと温かな、夢のような時間にいました。けれどほどなくして、ほろほろと聞き慣れぬ音がきこえてきました。微かに、揺られてもいるようです。それは、クマザサの葉の上に降り積もっていた雪が、春の陽の熱によって、少しずつ溶かされる音であり、雫となってぽたぽたとこぼれる時の振動が彼らに伝っているのでした。根雪であったひとしずくと兄弟たちがいるあたりには、太陽の決定的な熱はまだ届いていませんでしたが、それでもその変化の予兆に気が付かぬこはいませんでした。何より、彼らもまた、からだの内からフツフツと熱が沸き上がってくるのを感じていたのです。

ひとしずくの兄弟たちの内に灯った熱は、少しずつ互いに伝播していきました。そのせか、皆、少しずつ浮かれ始めていました。彼らは、雪が溶かされるにつれて広がってゆく視界の先を眺めては、「楽しみだね」「楽しみだね」と口をそろえて言いました。半透明の水の膜ごしに見えるこれから生まれでる世界は、諸手を広げて自分たちを待っている。そのことが、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。春を待つ雪たちは、こうして黄色い声をあげながら、来るべきあたたかなときを待ち望んでいるのです。

ひとしずくももちろん、兄弟たちと同じように期待で胸をいっぱいに膨らませていました。けれど同時に、輪郭もつかめぬほどおぼろげで、灰色や黒の陰影の濃淡に緑が重なり合うようにしか見えぬ世界に、ひとりどきどきしていました。兄弟たちの多くは、ひとしずくとしての空への旅を少なくとも一度は巡ったと見えて大変余裕があり、その先の世界に誰も彼もが胸を昂らせ、陽気に破顏していました。けれども、まだ何も見聞きしたことがないひとしずくにとっては、まわりの雪がすべてなくなり、視界がすっきりと晴れやかになるまでは、何も見えないのと同義でした。ひとしずくには、目の前に広がる世界が、ただただ不確かで不安定であるようにしか見えませんでした。

ひとしずくは、自分ひとりだけがちがう世界を見ているようで、とても心細くなりました。兄弟たちの嬉しそうな表情を見れば、怖いことなど何もないのだ、ということはよくわかりました。けれどそうは言っても、からだにはりつくじっとりとした不安は、簡単に拭えるものではありません。まわりの兄弟たちは、不透明な視界の先で何か動くものがあるたびに歓声をあげていました。ところがひとしずくは、兄弟たちの歓声が向けられているものが何なのかがわかりません。さらに、それらの動くものは時折、バサバサッとか、ピウーーといった奇天烈な音をたてるので、そのたびにひとしずくはぎくりとして、まわりの様子をうかがうのでした。そのような中、突然、彼らの視界の半分以上に、より一段と濃い灰色の何かがかぶさって、ほとんど何も見えなくなることがありました。それは、何のこともない、溶かされた雪の塊が上から滑ってきただけのことでしたので、兄弟たちは思いがけないとびきり面白い見世物に、声を立てて笑いました。けれどもひとしずくだけは、巨大な翳りが自分たちの世界に突然現れたのだと大変慄き、思わず声を上げてしまったのです。そのとき、兄弟たちがいっせいにひとしずくの方を振り向いたので、ひとしずくはとても恥ずかしくなりました。

 

つづく。