朝の5時。
梅雨が明け、穂の名と久しぶりに近所の山へ散歩に出かける。
つづら折りのゆるやかな坂と急こう配が交互に現れる馴染みのあるコース。
が、つい先日まで三日三晩ふりつづいた大雨のために
植物はこれまで見たことがないほどにあらん限りにのびていた。
見慣れたはずの坂道の両脇には草草が野良ぼうとしてのびにのび、
体高の高い穂の名の頭さえ優にこえる。
じっとりとした空気もあいまって、ここは亜熱帯かしらと妄想が膨らむほどに。
登りは好調で問題なかったが、下り始めてすぐ、
自分がサンダルで出かけていたことを後悔した。
遊歩道に敷き詰められた小粒の丸い礫石が私のサンダルの底で転がって、どんどんとすべるのである。
ふんばりがきかぬ私の前方では、穂の名はスキップをするようにらんらんと前進するものだから
私は朝から必死である。
礫石の土壌はやわらかく、前々日までの雨によって山からあふれた大量の水が走り逃げるための
ちょっとした小川が遊歩道のはじめからおわりまでできていた。
人がつくったものではなく、自然が物理の法則から自ずと導き出した通り水の道。
きっと「正解」なのだろう。
私は観察する。
意に反して運ばれる靴底に神経をとがらせ、重心を巧みに操りながら。
途中、すべり止めか、それとも水溜まりの深さを調整するためか、
真新しいざりざりとした大石の砂利が小川の内にそって敷き詰められていた。
埋め立てて、そのうち一緒に平らに戻すのだろうか。
先日鑑賞した矢野智徳さんのドキュメンタリーを思い出す。
水の通り道をコンクリートでふさぐことへの警鐘。
思いがけず、ミニマムな形でこれらの「普通の発想」を目の当たりにする。
人の、自然に対する当たり前の、普遍的な態度と関係性の縮図。
3.11から続く私の疑問の種は、きっと近いうちに新たな生き方として形になる。
私の知は蓄えられ、行動として花ひらく。