行動分析学では、
行動が増えることを「強化」と言い、行動が減ることを「弱化」と言う。
わかりやすい方程式のように述べれば、
ある行動をした後に良いことがあればその行動は強化されるし、
―例えば、いつでも美味しい蕎麦が食べられるならそのお店に通う行動は増えるし、維持される
ある行動をした後に嫌なことがあればその行動は弱化される
―例えば、蕎麦を食べたあとに腹をこわしたらそのお店に通う行動は減る、もしくはもう行かない(経験談)。
行動分析学においては、全ての行動が強化と弱化の随伴性で説明できるとされる。
おかしな話だが、信仰も行動分析で説明することができる。
数年前に山中を運転していたときのことだ。
右手に斜面、左手に斜面。その真ん中をにょろにょろと続く狭い車道を私は走っていた。
左手側の斜面は心もとない古いガードレールがあればよいほうで、大半は設置されていなかったので
この狭い道路で目測を誤ってタイヤが落ちたらどうしようそのまま下へ真っ逆さまに違いないという緊張感が常にあった。
一方、右手はコンクリートで舗装されていない、岩や木々が迫るような斜面でだいぶ高くまで見渡せる。
前日までが雨だったこともあり、土砂くずれという言葉が私の脳裏でひらひらと手を振っていた。
どきどきしながら運転していると、案の定、自治体によって後から設置されたと見られる
道路看板があり、何かの衝撃によって少しひしゃげている。
読めば「落石注意!!」と大きく書かれているではないか。
「落石にあいませんように!!!!!」
「土砂くずれにあいませんように!!!!!」
「落石にあいませんように!!!!!」
「土砂くずれにあいませんように!!!!!」
私は運転速度を上げて、夢中で山越えをした。
無事に目的を果たしたその後で、私は冷静になって考えた。
あのとき私はいったい何に対して祈っていたのかしら?
ご先祖さん?土地神さま?山の神さま?何かしらの神さま?
何であったかは知らないが、
祈る行動をした結果、良いこと(無事であったこと)があったということが大切なのである。
生命の危機を感じる同じような局面があれば、私はまた何かしらに祈る行動をとるのだろう(強化)。
この行動が集団やコミュニティで共有されていくにつれ、
そしてそのたびに良いことを享受できるのであれば、
はじめは漠然と祈っていた対象が確かに存在することになり、
その土地の信仰や宗教が頭をもたげてくる。
例えば、こうでもいい。
ある旅人がいかにも土砂くずれを起こしそうな山道を通ろうとするときのことだ。ふと目線をあげると
たまたま、人の顔のような、ありがたい形の石があった。
「無事に山道をこえられますように」
旅人は、命をむすびたい強い想いからその石に手を合わせ、
その後大事なく目的地までたどり着いたのであれば、あの石のおかげに違いないと思い込む。
それからも旅人は石に手を合わせることが習慣化し、無事に峠を越えられれば、祈る行動が強化される。
結果、旅人にとってその石が特別な対象のように思えてくる。
仮に、ど忘れして石に手を合わせることを怠った日に限って、山道で怪我をしたとする。
客観的に見ればただの偶然であると言い切ることもできるのである。
が、特別な石の前を通り過ぎるという行動をした結果、嫌なことが起こったと結び付けることこそ人間の心情だ。
以来、旅人はただ通り過ぎるという行動を意識してしなくなるだろうし(弱化)、
その結果、前にもましてきちんと手を合わせることとなるだろう。
人々の祈りのたまり場は、やがて、何かしらの形を人々から与えられ、具現化されてさらなる強さをもつ。
岩手や東北の、いや、人間の原風景のはじまりの多くは、ここにあるのではないか。
生きたいと願い続けた人間の、何万、何千年も前からの積み重ね。
澄んだり澱んだり。澄んだり澱んだり。