穂の名の散歩から帰ると、隣接した駐車場のガードレールのところで
何やら話し合い座り込む三人が。
ついに今年伐るというわが家のユリノキ関係の人かしら。
とはいってもなぜ、ユリノキの庭から離れた道沿いで?
奇妙に思っていたら、なんとその中に知った顔がいた。
何とも偶然なめぐり合わせだが、昨年別の機会に居合わせたHさんが
わが家のユリノキ伐採をしてくれるそうだ。(お互いなーにも知らなかった)
ちょうど帰って来たこともあり、実際にユリノキ見ますか?と庭を案内する。
聞けば、ユリノキがあまりにも大物なので、公道にクレーンを停めて
そこからユリノキを吊り上げる計画を立てているそうだ。
ガードレールを検分していたのは、クレーンを停めるにあたり、
ガードレールを一部除去する必要があるためとのこと。
思っていたより大がかりなことである。
初夏の青空にユリノキが高く掲げられる姿を想像し
少し胸が躍る。わが家のユリノキはついに空を飛ぶんだ!
ダイナミックで、気持ちよかろうな。
と同時に、ユリノキとの別れが現実的に着実に進行していることも思い知る。
感傷的になり、会話をしながら「寂しいなあー」とつい口に出る。
ここらで一番背が高く、季節の色を照らしてくれていた高木。
私の家の目印。
ふつうの家になってしまう、とは変なことを言うようなので心のうちに留めておいたが。
ユリノキの開花は5月下旬から6月半ばである。
着手するのは6月末から7月か。
ユリノキの花を楽しむ余暇は残してくれる段取りなので、
まだ心が慰められる。
とにかく我ながら不思議なのだ。
動物相手であればまだしも、木に対してこれほど思い入れがあることに驚いているし、
俯瞰的に見て人の心の機微と深さに感心もする。
だが感情だ。こればかりはとめどがない。
記憶の器なのだ。大樹というのはいつ、どこであってもきっと。