夜半過ぎ、その日は新月で月明かりも望めぬような暗い空であった。私は車で山越えをしていた。ハイビームにしたヘッドライトの二筋の光それのみに己の行く手のすべてを託して山道を走る。山の夜の闇は深く、そして静かだ。真新しく舗装されたコンクリート道路が不気味にのっぺりとしていて、走行音が聞こえてこない。おしろいを分厚く塗りたくった人がそうであるように無表情な道路は、物の怪のような異様さがある。
とにかく早く家に帰ろう。私はアクセルを踏み込んで速度をあげた。時速70キロをこえたところでようやく、ぶおおおんと私の焦燥に応えるエンジン音が聞こえてきた。かすかだが、風を切る音もする。もう少し走れば、信号が灯る道路に出る。深夜だからおそらくは黄色く点滅しているだけだろうが、人の気配を感じられるという安心感こそ今の私には必要なのだ。
しばらくするとラブホテルの看板が見えた。建物自体は巧みに車道から隠されどこにあるのかはわからないが、この看板にはなじみがある。変な意味ではない。私にとってこれは、国道がまもなくであるという吉報の印。いまだ道は暗いが、ほのかに白光りする町の灯が遠くの方に見えてくる。おかげで肩の力が抜けてきて、私はようやく気楽な気分になってきた。あの妖怪もここまでは来るまい。「疑心暗鬼」とは闇への恐怖から生まれた造語であるとわかりきっているではないか。
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スピードをゆるめ、窓をあけた。ぴうぴうと音をならす春の夜風はまだまだ冷たい。けれども私の鼻は、その風の中に花の香を探ろうとする。そして私の目は、…フロントガラスの先で動いている何か、に釘付けになった。視界の向こう正面、家々の屋根の高さにぬうらりとした青白い灯がぽつぽつと浮かんでいるのだ。ちぐはぐに大小不揃いの形をして20、30はあるのではないか。それぞれが弧を描くようにゆらゆらと舞っていて、生きているようにも見える。気がした。少しどきりとしたが、人家も増えてきたこの辺りでは私の臆病も姿をひそめる。アクセルから右足を放し、それが何であるのかを凝視しながら走り去る。すると、何のことはない。コブシの花のつぼみたちが枝先にひっついて、夜風にただただ揺られているのだ。
ところが、確かにそのコブシたちは走り去る私にこう言った。
「ワタシをよんで」
ワタシ、とは無論コブシそのひとである。先日の蝸牛に相対したときと同じように、コブシもまたそう言った。私はサイドミラーごしにその姿を認めながら、ただ「わかった」とだけ答え、そのまま車を加速させた。