コブシ暦

備えがなければ、現在でも電波が届かぬ楽園がある。

かつて、食糧供給のための国策として開墾された土地だ。

戦時下に家族とともにその地に移り住み、天寿を全うしたある老壮の話を最近聞いた。

 

今から何十年前の話なのかはわからぬが、

当時80代半ばも過ぎた彼のもとに電気会社の職員が現れて

老壮が住む土地一帯に電気を通すことになったと言伝た。

おそらく戦後の復興期の話なのだろう。

 

つきましては。

「電線をわたらせるのに、このコブシを大木を伐り倒してもよろしいか 」

見聞による話ながら、この場面をまるで実際に目にしたことがあるかのように想像できるのは歴史の教材のせいだろうか。

もはや戦後ではない、の言葉に沸きたつ一人として、

当然職務を全うしようと訪れたに違いない。

だが、老壮ははっきり断った。

「コブシを伐らなければならないのなら、電気は要らない」と。

これから到来する豊かな時代に電気は必須だと自負していた職員は虚を衝かれた。

空に架かる電線は文明的生活をたぐり寄せるための綱に等しく

誰も彼も勇んで首肯するのが常であったのに。

 

だが老壮にとっては、ぶらりとたわむくせに風にもそよがぬ重き黒き人工綱は

その地域に春の訪れをつげるコブシの花ほど価値をもたなかった。

「コブシの花が咲くころをめあてにして、種まきをするのがもっともよい」

コブシとともに生きる営み。生きる人。

 

日々を十数枚に束ねられたカレンダーばかりに依るのではなく、

木々のめぐりに寄り添っていきられたらと思う。

それぞれの人に、それぞれの木々や花々としてあればいい。

私にとっての暦が、わが庭のユリノキであるように。

 

ちょうどこの春は、件のコブシの太い枝が

昨冬の風雪により折れたからと立派な枝ぶりをみやげにもらった。

切り口から柑橘系に似たさわやかな香りを漂わせる。

花瓶に挿したコブシのつぼみを見るたびに

名も知れぬその老壮の話を思い出している。