カメムシ

相棒の穂の名は、一応鳥猟犬種なのだが、

昨晩のカメムシとの対峙を見るに、猟犬としてはどうも駄目そうである。

鳥と同じく羽のある生き物とはいえ、虫にも反応されちゃあ困るのである。

 

昨晩のこと。穂の名の様子がどうも変である。

夕の飯を食べさせてしまえば、この犬の一日はもう寝るだけで終わるのだが

昨晩は落ち着くことなくずっとうろうろし、立ち止まってはこちらを向いて私に何かを訴えかける。

ようやくふせたと思っても、決して楽な姿勢をくずすことはない。

スフィンクスさながらの姿勢で伏せてなお屹立とし、首を高くもたげたまま耳の付け根をそばだてている。

からだ全体の緊張がなかなかどうして抜けきらない。

へらへらにこにこしているようにも見えるが、穂の名おきまりのどきどきしているときの表情にも見える。目もいつもよりまんまるだ。

胃拡張などの体調不良を疑ってからだに触れるが、痛がりはしない。ひとまず胸をなでおろす。

けれど、その時々で突発的にワンワンワンワン!ワンワンワンワン!と虚空に向かって吠えかかる。

でも私には、何に対して吠えているのかが全くわからず対処しようがない。

 

わからないものはわからない。こちらは穂の名の神経質さを被らず普段通りに過ごす。

が、居間にいることが不安なのか、寝室に一緒に行こうと穂の名に連れ出される(そういうコマンドを教えている)。

けれども寝床で一緒に過ごしていても依然何かに耳を澄まし続けて落ち着かない。

確かに昨晩は、壁裏のハクビシンの足音もやたら騒々しかったが、

ハクビシンならすっかり慣れているはずなのに、だ。

背中を撫でてやったりするが、まだじりじりとセンサーを張り続けている。

 

本も読み終わったので、穂の名を連れて居間に戻る。

外でもないのに、ずっと私の横について歩く穂の名。やっぱり妙だ。

と、思っていると、ワンワンワンワンワン!ワンワンワンワンワン!とまたけたたましく

今度はテレビの裏に向かって吠える。

アウラも穂の名の真似をしてテレビに駆け寄るので、あわててテレビを守り、2頭をその場から離れさせる。

 

すると、そこから聞き覚えのある羽音が聞こえてきた。

ぶぅ゛ううううん ぶう゛ぅうううううん ぶう゛ぅぅぅぅぅん

私の耳が、思い出す。そういえば、数年前にも穂の名は部屋に侵入してきたこいつに吠えかかっていたことがあったっけ。

カメムシである。

案の定、穂の名のまんまるい目とひくひく動く鼻は、蛍光灯を逆光にして天井近くを飛翔するカメムシを熱心に追跡している。

穂の名にしか聞こえぬ羽の振動・擦れ、特有のにおいに夕飯からこっち、長らく苛まれていたのかとようやく合点するが(苛まれるにはあまりにも微かな気がするが)、

犬と同等の感度で人間の私が気が付けるはずもない。

当のカメムシは、私と穂の名に注目されていることなどつゆ知らず、

真っ白い天井に一点しっかり留まった。

 

ようやく正体を現したことが穂の名にとって安心なのか不安なのかはわからないが、

自分の鼻の穴ほどの小ささの虫をじっと見つめて目を離さない。ともすれば吠える。

ワンワンワンワン。虫に犬語がわかるはずはない――どころか、聞こえるという概念すらないに違いないが

夜22時も過ぎているというのにまあ吠える。迷惑この上ない。

ハンドラーの私に、獲物(?)の位置を教えていると思えば、確かに猟犬向きなのか?

でもこんなささいな虫ですら?

私は半ば呆れながら、かたく折りたたんだ新聞紙を片手にテーブルにのぼる。

カメムシには悪いが、きみをやっつけないと穂の名が寝付いてくれないのだ。求ム、平和的健やかな就寝!

テーブルの上から穂の名の表情を確認する。

眼差しはあいかわらずカメムシに釘付けだが、顔つきから察するに私のこの行動は正解らしい。

私はカメムシをはたき落とした。