ししゃもの弔い -3

ししゃもの弔い -3

 

あの大量のししゃもを受け取ったときには食べきれるだろうかとさすがに途方にくれたが、小分けにして冷凍保存していたものを少しずつ取り出しては食い、また食い。これを二ヶ月弱かけてせっせと続け、口に運んでいるうちに今では残りわずかになった。最後の十数尾をどう食べようかと悩むことはもうしない。ただ一択。塩をふりかけて、丁寧に焼いて食う。子持ちししゃもではないし、どの個体も私の小指ほどの大きさしかないが、結局このいただき方が一番うまい。調味料の味ではなく、ししゃもという魚、一生物としての味をそのまま食う楽しみがある。

とはいえ、毎日あるいは二日に一度と食べていれば、ししゃもには悪いがやはり飽きてくるというもので、料理は不得手ながらそれなりに工夫もした。簡単なところでは、調味料を変えてみた。中華風にごま油とラー油、メキシコ風にチリソース、ヨーロッパ風にトマトソースやクリームソース。けれどもどれもしっくり来ず一度でやめた。和風に大根おろしとさっぱりポン酢。これはまあまあおいしかった。ししゃもの身をほぐして出汁にいれ、卵でとじる。これもうまかった。刻みネギをいれたりして。思いつきで調理したものが美味くできると調子にのってしまう。それでついつい自分の料理の発想の奔放さに酔いしれてみたくなり、ししゃもを使って煮干しのように出汁をとることもできるのではないかと思いついた。残念ながら微妙だったが。

台所で私がししゃもとにらめっこをしていると、飼い犬のイナサがやって来て、今日もまたそれなんですねと確認してから距離を保って伏せをする。そして調理の頃合いを見計らって立ち上がると、下げた私の手のひらにちょんと鼻先をあて、一匹いただけませんでしょうかと謙虚なふりをしながら当然のように座って待つようになった。犬というのは学習する生き物だ。彼はししゃもがおいしいことを既に知っており、すっかりお気に召している。

基本的に人間の食べ物は犬にはやらないことにしているので、最初のうちは頑なに放っておいたのだ。ところがあるとき包丁に手をのばした拍子に数尾落としてしまい、そのような絶好の機会を何事にも敏いイナサが見逃すはずがなく、あっという間に平らげてしまった。まるで落ちている瞬間がスローモーションに見えていたのではないかと思えるほどに素早い動きだった。

以来、せっかくの食材を犬にやるのは気が引けるのだが、こんなにあるのだからいいかと思い直してまずはししゃもの頭だけ、あるいはししゃものしっぽだけ、いやいやイナサの瞳に免じてたまにならいいかと一尾だけ、とやるようになってしまった。…犬好きの人間は決まってそういう言い訳をするとは言わないでくれ。

今日は、天気もよかった。預かっていた書き仕事も一段落して気持ちがいい。朝起きて、午前のはじめの一仕事でパソコンをひらき、メール画面をひらいて、書き上げたものを添付して送信。納品するこの瞬間はいつでも強肩野手の気分である。天高く澄みわたる青空に向かって、大きくふりかぶり思いっきりボールを遠くへ投げる、そんな心持ちだ。今回の仕事は少し時間をかけたものだったから、その爽快感たるやひとしお大きく、戻ってこなくていいからな!という願いもこめて、空の彼方まで突き抜かせるつもりで送信ボタンをクリックする。

身体中めいっぱいに背伸びをして立ち上がれば、目に余るのは生活の堆積物だ。溜めてしまっていた洗濯物を一度に洗濯機の中につめこんで、その間に簡易モップを家中の床にまんべんなくかける。使い捨てのシートを交換して使うタイプのモップである。これは私の生活を見かねた母の教え。

「四十に近いんだから、これくらいなら出来るでしょ」

と子供扱いとも大人扱いともとれる物言いをして、シートだけを大量に置いていった。なるほど、少しかけるだけでもほこりと犬の毛でいっぱいになる。

生活の中のそういった諸々事をばたばたと済ませてようやく落ち着き、ぼうっとくつろげる時間がくる。遅い朝である。窓をあけて喚起をする。かき集めた紙の資料にも風が通る。少しだけ湿った空気に爽秋の風が入りまじる。得がたい日だ。いい日である。今日は何もしないぞ、何も考えないぞ、いかなる文字も私の目の前に現れるなよと固く決意をして時計を見れば、もう十一時になるところだ。言われてみれば腹も減ってきた。

朝のうちに多めに焼いておいたししゃもで昼飯は決まりである。が、今日のようなすがすがしい日に、昨日までタイピングをしていたテーブルで飯を食うのも味気ない。窓から外を見れば、日差しが眩しく美しいのに。そこで、つい興がのって、子供の遠足のような気分で、外で昼飯をとることにした。といってもイナサもいるし、これから身綺麗にするのも面倒なので、私たちのいつもの庭で食べるだけなのだが。それでも雑木林のようなこの庭でならそれなりに楽しめるだろう。

冷凍しておいたご飯をラップに包んだまま解凍し、熱い熱いと独りごちながら手のひらでぎゅっぎゅっと丸く握る。アルミホイルに海苔を重ねて置き、丸めたご飯をその上に落として適当に塩をふる。角度を変えて、もう一ふり。それから、アルミホイルで海苔ごとくるめば、雰囲気だけは一丁前にピクニック用の握り飯だ。おそらく塩気にムラがあると思うが、大したことじゃない。外で食べるという思いつきに、思いのほか気分が高揚しているのを感じる。もう一枚のアルミホイルにはししゃも数匹と、数日前にコンビニで買った柴漬けも一緒に。あとは割り箸。皿洗いをしたくない魂胆。

巾着袋にでもつめこめば、さらに童心に火がつきそうだが、あいにくそんな物は持っていない。左手に銀の包みを二つと箸、右手にペットボトルの緑茶を持って、庭に出る。いつもであればイナサが振り向き振り向き先行するが、今日はゴハンを持っているんですねと目敏く見つけ、私の顔を見上げながら、半歩後ろをついて歩く。

いつもはただただ歩き回っている庭であるが、いざ腰を落ち着けて食べられる場所となると程度のいい場所がなかなか見つからなかった。結局、かつて曾祖父がどこからか見つけてきたという大岩に腰かけ、膝の上に飯を広げる。

晴天の下で食うというだけで、何て心が充足するのだろう。予想通り、握り飯は塩味のついていない部分も多かったが、そういう時はししゃもを口に運べば、ちょうどよく食えた。白米というのはどこで食ってもうまい。偉いもんだなあと思う。それに、この数ヶ月はししゃもばかり焼いていたので、私の塩焼きの腕もなかなかあがったように思った。塩気はあるけど、ししゃも本来の味を消すほどではない絶妙な塩梅。調味の比率、焼き加減ならばまあまあ自信をつけたように思う。この小指サイズのししゃもに限ってではあるのだが。

しばらくすると、堪えきれぬようにイナサが高い声でワンと吠えた。甘え、催促の吠えである。言われてみれば確かにそうだ。私だけが食うものを食って、木陰の下で舌鼓というのも不公平に違いない。握り飯はすべて腹に収めてしまったから、ししゃもでもやるかと思う。

だがふと気になってすんでのところで手を止めた。もしや曾祖母に見られているのではあるまいか。そう思ってしまったのである。

幼い頃、私と弟がこの庭で遊んでいると、いつでも何とはなしに庭へ出てきて、植物をいじっていた曾祖母。もう何年も前に亡くなってしまったが、彼女は人間の食べ物を犬に与えるなどもっての外だと言う人で、私たちひ孫が当時の愛犬に飯をやるのを見かけるたびに顔をしかめたものだった。

老齢のわりにぴしゃりと通った曾祖母の声が記憶の中に蘇る。