カラスウリ

カラスウリ

 

盆前だというのに、暗い夏だ。
天気予報では、日本列島の上空に居座る線状降雨帯が終日映し出されている。青色と紫色の四角で表された降雨帯の雲の動きは、時間経過とともにモザイクのように蠢き、そのビジュアルの面白さにぽかんと見入る。が、時折挿入される日本各地の雨量の様子と、注意喚起のために穏やかに尖らせたアナウンサーの声に現実を見る。佐賀、長崎、熊本。いったいこの数日間の天気はどうだというのだ。たった一夜で過ぎ去る台風がよっぽど良い奴だったなどと思うなんて。

幸い(と言っていいのだろうか悩む)、私が住んでいる岩手内陸部では雨はほとんど降っていない。が、とにかく空が惨く暗い。あの降雨帯は、いったいどこまで雲の手をのばしてくるのだろう。ふと、カマドウマの長い節足が思い出されたが、いや、それならこれほどに一所に執着することもなさそうだと思い直した。

定時の天気予報によると、今日は前年の同日と比べて十二度も気温が低いのだそうだ。どうりで寒いわけだ。ようし、これなら文句はないだろう。そう思って、床暖房のスイッチをいれた。ぴぴっと音がなり、緑色の小さなランプがつく。電子音のわりに耳ざわりがやわらかで、好ましい音だ。かねてより、自然の循環の中で謙虚に生きたいと願う野望はもちつつ、前年比の気温差を理由にして季節外れの肌寒さとオサラバできることに嬉々とする。

洗濯物を抱えて二階に上がる。大正中期の造りがそのままのわが家は、二階に未だその趣がある。十六畳の部屋が二つ。今はどちらの床もフローリング加工され、軽い素材の木の引き戸で区切られているが、当時は襖であったのだろう。隣接する二つの部屋の東と南側、その二辺にわたってL字に廊下が渉らせてある。既に木目は黒く色落ちあるいはすり減り、ぎしぎしとなるのもご愛敬だ。が、この南側の廊下の窓辺がこの家で一番日当たりがいいのだ。だが、今日明日はどうだろう。とにかく一日中空が暗い。陽を見ない。風は少しあるようだが、秋のようにつれない冷たさ。

わかってはいたが、廊下の狭さと洗濯干し台の身幅のでかさの不一致に苦労する。身体をよじり、色あせた赤色の紳士用靴下を干しながらおやと思った。空が、さらに影に沈むように暗くなったのだ。いよいよ雨でも降ってきたかしらと窓から身をのりだし、空を仰ぐ。ぽつりともしていない。気のせいか。しかしこの様子じゃ降らんこともないだろう。風通しが悪くなるが仕方がない。念のため窓をしめる。

と、眼下にはたと白い何かが眼にとまった。すぐに花の種類だろうとぴんと来たが、さて、わが野生の庭の鬱蒼とした中に、今頃咲くような白い花などあったろうか。そう思って、眼を凝らす。

それは、カラスウリであった。可憐でありながら、異様な花。花弁の先の白いもしゃくしゃがこの距離からもよくわかる。どこかから蔦がのびてこの庭に定着したに違いない。よそではよく見かけていたが、ついにわが家にも来たのだな。

陽のささぬ暗い日の、この白さがなぜだかすごく象徴のように思えたのだ。何かの呼び声というわけでもあるまいに、不吉でもなく光でもなく、何かの予感としてこれからも永く思い出される気がした。カラスウリ。

八月十日