うみやまのあいだのひとしずく⑬【完結】

ひとしずくは、太陽の眩しさにまだ目をしばたかせていましたが、光の洗礼にようやく慣れてくるにつれ、自分をとりまく白い光がだんだんと黄金色になり、それから少しずつ橙色に変わってゆくのをひとしずくは感じ取りました。ひとしずくがよく知る、いつもの橙色の光です。光の靄の先に、淡く、おぼろげながらもようやく、ひとしずくの世界が広がっているのが見えました。

「目をひらいているほうが、おもしろい。」

だから今度こそ。ひとしずくは、つい今まで自分の中にあった光の体温をからだの内に抱きとめながら、いつものことばを口ずさみ、また真心からふふふとほほえみました。

ひとしずくはついに、もういちど、自分が生まれた世界をその目で見る機会を得たのです。

そこは、とてつもなく広い世界でした。ひとしずくは、初めて本当の空を知りました。クマザサの葉をのぼっているとき、眼下に見える雪解けの水たまりに、もうひとつの水面のような、壮大な何かが映っていることは知っていました。しかしそれらはどれも銀鼠色でしたし、草木の影も生来の鮮やかさが消え黒ずんで映っていたために、ひとしずくの心はあまり惹かれなかったのです。ところが、目の前に広がる本当の空の色といったらどうでしょう。沁みわたる青。春の青。ぼくが雪の中で眠っていたときにも、こんなにきれいな青が真上に広がっていたなんて、とひとしずくは思いました。意外だったのは、太陽でした。あの光に充てられたとき、太陽の正体は、虫でも大樹でもなく、とてつもなく大きな光の渦であって、それが世界全体を覆っているのだと思ったのです。そう信じこむに足る経験をひとしずくはしたのです。けれども実際には、空に浮かぶ太陽は思っていたよりずいぶん小さな球体でした。とはいえ、この世界はあの太陽を中心としてあらゆることがめぐっていました。それが、ひとしずくにはとても不思議でなりませんでした。

ひとしずくはしばらく、空に心を奪われていましたが、目の端に青い何かが動いているのを捉え、視線を地上へとうつしました。ひとしずくの目が捉えた青く光るものは、近くの泉に向かうカワセミでしたが、ひとしずくはすぐに見失ってしまいました。たとえ、見失わずにいたとしても、ひとしずくはその背後に広がる自分が生まれたこの森に心を奪われ、目が離せなくなっていたことでしょう。

そこは、とてつもなく、美しい世界でした。この美しい森に生まれた自分を心から祝福したくなりました。たくさんの生き物たちがうごめき、生気にあふれ、満ち満ちていました。かつて目の前に堂々と屹立したであろう桐の木は今では小さなひとしずくの眼下にまで傾いていました。光を遮るものが何一つなくなった緑の森は、春の準備をいっせいにととのえ、芽吹き、輝いていました。空からふりそそぐあの陽光は、うるんだ湿気や悦びの空気、あちこちで群れ広がる葉たちの艶やかな照りや、雪解けの光に幾重にも反射して七色に輝いていました。何千種もの新緑色がいっせいにたわむれ、枝先には幼気な萌木が可愛らしい桃色を芽ぐみ、春のうたかたがそこら中にこぼれています。ひとしずくは、自分がこの世界でもっとも美しい時間に生まれたことを知りました。

ずいぶん長い間、ひとしずくはその光景に見惚れていました。悠久と思われるこの時間を見るにつけ、あすこで葉をよじのぼった甲斐があったと心からそう思うのでした。ひとしずくの透明なからだは、その有様をはじめからおわりまで鮮明に映していました。それだけでなく、森中を駆ける陽光をからだ中に幾度となく透過させ、屈折させ、反射させてはこの森の美しさに一役与していました。けれどもこのことは、ひとしずくの知らないことでありました。

ふと、ひとしずくはクマザサを見上げました。何となく、クマザサもこの景色を見ているかしらと気になったのです。

クマザサは、最後のひとふんばりをもうとっくに終えたようで、強かなる呼吸で早くもこの森を支えていました。先の春と同じく茎や枝をすっくと立ち上らせ、こうべをあげたその姿はつい先ほどまで眠っていたとは思えぬほど凛然としています。上空へと広げた深緑色の葉を爛爛とさせ、その白い縁取りが己の輪郭をいっそう際だたせているその佇まいは、真っ白な残雪がまだちらほらときらめく森の中でも、より存在感を放っていました。春の太陽に照らされたその姿は、青き尊厳をそなえた清らかな生命そのものでした。

クマザサは、自分の肩のあたりにちらっと光るひとしずくを見つけました。

「おはよう。」とひとしずくは言いました。

「おはよう。ひとしずく。いい春だな。」

クマザサも答えるのでした。