フィールドワーク(T川地区 1)

 

したため。

T川地区。盛岡市から宮古市へとつながる三陸復興道路を途中でおり、旧道からさらに下る。

T川という川。T川は北上川の支流の一つである。川であるからにはそのT川にもまた支流があり、山の方々から幾筋かに分かたれてT川へと流れでる。ここでは、T川の支流もすべて梁川と表記することにする。

私がここにしたためる集落は、T川の支流が初めて流れでる山合いに住まういくつかの世帯。この川を横に見ながら旧道を下れば平地(といっても斜度はある)があり、そこも同じくT川地区と呼ぶのであるが、ここでの記述はこの平地は指さない。

N神社。T川地区にある唯一の神社。特に誰を御祭神としているわけではない。おそらく、地鎮めか。集落の土地神。氏神。とにかく、この集落の小さな共同体の人々にとっての願いの形。よりどころ。かつて、そしておそらくは今も。祖父の祖父の代が開墾した土地と聞いているので、かつてここで生きると決めた先代たちが祀ったのかもしれない。

N神社の鳥居から数歩歩いた場所に石の碑が三つ建っている。大きさはいずれも、私の背丈と同じか高いくらい。杉の木立の陰にあり、そのせいか訪れるたびに印象は暗い。一番右の碑には「〇〇太夫」と書いてある。人の名。何かの口承や芸、あるいは知恵をこの地に授けた人だろうか。

一番左の碑には南無阿弥陀佛と刻まれてある。書体からして、これが一番新しそうだ。

残りの一つ、真ん中の碑は梵字である。何と書いてあるのかはわからないが、山岳信仰の名残かもしれない。刻まれた字体が真っ赤に塗られてあるのだが、これは後世によるものだろう。梵字。か。だからといって、間違ってもT川集落=山岳信仰の子孫などと早合点してはいけないと自分に命ず。神社のすぐ裏は山を削って宮古市へとつながる県道が走っている。そのために、道のこちら側とあちら側というように区切られ、この集落が交通量の多い外界と一線を画すような印象を受けるがそうではない。そもそも県道が通る前は大いなる山々とその裾にちょこなんと抱かれるようにして住まう人々、それだけであった。かつての山々の連なり、未開の畏れ多さなど。梵字については、この土地をダイナミックに捉えるためのきっかけとしてのみ、今は理解をしておこう。

T川との関係。この集落の田畑の灌漑は、T川からひいた水、その水路に依っている。川と人工水路の分岐点、そのすぐ近くにN神社がある。

さらに、神社の脇には水が湧きでるポイントがあるらしい。らしい、というのは祖父から聞いただけでその在処は知らずに言っているので。〇〇で覆って(〇〇を聞き取れなかった)下を通しているとのことだった。湧水の水源も、T川の水脈と同じではなかろうか。水が尽きぬありがたさ。

今の私の目から見れば、この神社は田畑の豊饒はもちろん、その肝となる水流の守り神のように見える。川の流れ、山の稜線、限られた平地。その他さまざまな地形を加味すれば、ここに何かしらの信仰の印ができ、それに乗じるように神社が上書きされたことにも納得する。

フィールドワーク(T川地区 1)