顔をはたく蔓や枝、脚にひっかかる藪や柴を予め切るなどして除けておき、
山中の丸太を運び出すために人一人、馬一頭が安全に通れる分だけの道をつくる。
今よりほんの少しだけ昔の、私の祖父母やその上の世代の人々にとって、山は宝。
必要以上に道は広げず、必要以上に山を傷つけぬ。
そのために、人馬が通る道の幹や根には柴や垣などで覆いをつくることさえしていたというのだから。
あるいは、他者にその山の道を知られぬための工夫とか。
馬の糞尿を肥しにして、たった一年ほどでその道は元に戻り、山になじむという。
およそ10年の間に私の中にたくわえられ蟠っていた違和感や疑問。
なぜ、あんなにもはげ山になるのか。
なぜ、あんなにも土を削るのか。
なぜ、運搬のためとはいえ、こんなにも大型トラックで土を踏み固めるのか。この後草木が生えないじゃないか。
なぜ、猿がこんなところまで来ているのか。ああ、そういえばあっちの山は先日手放されてあっという間に業者によって全ての木が伐られたのだったか。
山沿い、海沿いに出向くたびに奇妙に思っていた光景の数々。
その穴ぼこのような空白の大地。
きっと、決して効率的ではない。が、その緩やかなれど強かな馬の歩みがこれらの空欄にぼとりぼとりと答えを埋めてくれたような気がした。
胴を触れば全身が汗で湿っている。
その汗は、紙幣やスピードにとって代わるものではない。ただね、
この山の主は自分の家を、馬、お前と一緒に建てたいのだとさ。