ゴールデンウィークの4連休を使ってユリノキを伐るとは聞いていたが、
実際にはたった一日で終わった。その他の三日は、クレーンの搬入搬出やその準備、
ユリノキ以外の庭木(杉数本と柿の木)の伐採。
9時前から始まり、昼休憩を挟んで、15時前には伐られ終わった。
チェーンソーを使えば、百年近く生きた大木さえ一瞬で終わる。あっけないものである。
刃の進歩は、山々の木々を見る人間の思考を大きく変えたことだろう。あれもこれも伐採できる、と。
伐り終えたユリノキをクレーンでぶら下げて庭から運び出すさまは、なかなか見ごたえがあった。
父や父のいとこ二人(同い年の三人)がわざわざ来て、ビールを片手に見物している。
近所の人や通行人も思わず足を止めて見上げていたようである。
ああ、ついに伐られたか。
空を背にしたユリノキのスペクタクルは寂しさを紛らわすには必要な興奮であり、
天気にも恵まれ壮観であった。
まずは、條々がのびにのびた上半分を伐り終える。
(切断、という言葉を使おうかと思ったが、親しんで余りあるユリノキに使うには
なんだか生々しくて、いかにも痛そうな表現で用いるのをやめた)
途端に空が広くなる。
ユリノキの葉がなる風の音もこれでしまいだ。
ユリノキの根元から幹の中部ぐらいまでは大きな空洞であることは知っていたが、
こうして伐って中を見てみると主幹はもうずいぶん上の方まで水腐れしていたことがわかる。
どこまでもすっかり虚になって倒木するのも時間の問題だったのかもしれない。
嫌われものの蔦も、ユリノキの高い方の條々にまで生き生きと駆け上り、絡んでいた。
以前、樹木医の方に蔦について聞いたことがある。
質問の内容は自分でも忘れたが、おそらく、蔦が絡むと樹木が弱るというのは本当か、と言ったようなことだった気がしている。
答えていわく、蔦がからむのはその環境(樹木のまわりの・樹木自身の)に蔦が好む条件がそろっているからである。
すなわち、蔦がからむということは、そもそも土に適切な水はけと空気の循環が足りず、
樹木が弱っているからである、と。
からだの真ん中からこれほど弱っていたならば、蔦に好かれ憑りつかれたのも道理だというわけだ。
ユリノキもまさか自分が空を飛ぶとは思わなかっただろう。
紺碧に、ユリノキのシルエット。
その情景にはもちろん悲しさもあったが、こうしていろいろ知ってみると(病理解剖の気分だ)
すっかり幹の内側から腐り果て、空洞でぼろぼろになったあげく、
ついに耐えられなくなってどしんと倒れ去ることはこの樹の生きざまには似合わぬと思い至った。
私や家族がなぐさめられたのは、実際の伐採を担当したH氏による言葉だ。
経験上伐った重さは何となくわかるのだそうだが、
條々が広がり、葉も繁った上半分だけでおよそ4トンはあったであろうという見立てである。
下半分がほとんど空洞であるので、
「よく立っていたな」というのが率直な実感だったそうである。
確かに年々枝の重さで傾いではいた。
「私たちの家をつぶさないよう、がんばってくれていたのね」とは誰のことばであったか。
あまりにも擬人化しすぎてやけにロマンチックなので他人事のように聞いていたが、
何となく印象的だったのは、私の胸のうちにもふと思い浮かんだ発想だったからかもしれない。
忘れてしまった。