ユリノキの上半分の條々が空に掲げられ、早くも私の心には寂しさの空ろ(うつろ)ができた。
大きく上にのびたユリノキの肩や腕に似た枝が吊り上げられるたび、ほう、すごいな、かっこいいなどと
声を上げてはいたものの、自覚のある虚勢であっただけに思っている以上に声はか細く
時には感嘆とは別の溜め息がまじっていたに違いない。
伐ることに後悔はないか、と問われたらやはり迷いはずっと続いていた。
チェーソーンがユリノキの幹に削刃を当ててウキュキキキキキと高笑いしている音を聞いている間でさえ、
「伐ってよかったのかな」という言葉が形を伴なって私の頭に巣食っていた。
またも掲げ上げられるユリノキを仰ぎ見ながら、私はまた同じ言葉をこぼしたのだろう。
となりにいた母から、あんまりそういうことを父の前で言うんじゃないと釘を刺される。
父がしくしく泣いていたというのだ。なぜかと聞けば、
毎日毎季節ユリノキを見上げていたという近所の人から「伐っちゃったんですねえ」と寂しそうに言われたからという理由で。
伐採することを決断した父が、家族でもっともセンシティブな人間であることをそういえば忘れていた。
吊り上げられたユリノキは隣接するスペースにおろされ、
トラックで搬出しやすいようチェーンソーなどを用いてさらに細かく裁断された。
もはや、樹の上も下もあったものではない。
幹の太さや枝の付き方から、こちらが上部で、こちらが根の方か?などと判断する。
実際、このユリノキにも枝の先まで花のつぼみがたくさんついていたのだ。
何十年もの間、そうして初夏を迎えていたように、いつものように準備をして待っていたのだ。
洞となろうが水腐れをしていようが、花が咲く限りは次の年にも生きる意志があるということだ。
その循環をこちらの事情で断ち切ってしまったことに、私のこの感情の始原がある気がした。
昼過ぎて、ユリノキの伐採を肴にビールを飲んでいる父に声をかけた。
泣いたらしいじゃん、と子の戯れ言。
父はフンと鼻を鳴らし、それで威厳を保った体(てい)で以て目を伏せて
照れくさそうに顔をはにかませてから(この両極の態度が父らしいと思う)、
「泣いたんじゃない、ただ涙が出たのだ」と答えた。
ああ、なるほど。感情に名前を与えるその前に。
涙が出たのか。それなら私にもわかると思った。