ある神話。
空が怒り、七日七晩飽くことなく大雨をふらせ、
川は氾濫し、海が溢れる。
怒涛はいのちも非・いのちも秤にかけず、無差別にそれらの全てあるいは一部を奪い去る。人が供物が田畑が家々が家畜が財産が。
川ヨ、川ヨ、鎮マリタマヘ。
川ヨ、川ヨ、鎮マリタマヘ。
人は、水の猛威に彼奴の感情を見出す。怒るならば許しを求め、嘆くならばあらん限りの卑下を示す。
この原始的感情はおよそ何万年と紡がれてるのだろうが…。
非常に見慣れたこの川の水位が、堤防に立つ私の爪先わずか10㎝まで迫るのを目にして
私は、親愛から転じた抗いがたい屈服感と、畏怖の萌芽を自分の心にも見出した。
怒るといえば怒っているのだ。そう見えるのだ。
ただし、一方で、現象の連鎖と言えばそれまでにも見える。
遡れば、南米あたりの熱帯雨林の昨日か一昨日のお天気だって遠く関係しているのかもしれない。
すべては自然の法則通り。気温、湿度、気圧、風速それらの数字の指すとおり。
必然的な数字の並びの結果に過ぎず、
0℃以下になれば凍り、高温になれば蒸気になってめぐるというだけの自然科学の一般法則。
仮に、その暴虐性に私たちが勝手に感情をくらったとしても、
川からすれば、それらの連鎖の結果、ただかさが増したゆえに溢れただけのこと。
「自然と人間」の関係なんてよく言うけれど、
突き詰めれば、よもや始めから、同じ世界線にいないのではないか。
その気づきがあってはじめて、私たちの願いの形――その光景が見えてくるのではないかしら。