うみやまのあいだのひとしずく⑥

 

どうもおかしい、とひとしずくは思いました。

「他のみんなはもうとっくに旅立ったというのに、ぼくだけがここにいるのはなんだかへんだ。」

何か知らぬうちにやり方を間違えたんだ、そうでなきゃ自分だけがここから動けないわけがない。そう思い至ったひとしずくは、兄弟たちがしていて、自分はしてこなかったことを探してみました。早くも手持ち無沙汰で途方にくれていたのです。早く追いつかなければという焦りもありました。ここで、この葉の上で、自分がこれからできることなど何一つないように思われました。そこで、思いつくままに、あの決まり文句を自分も唱えてみたのです。

「それじゃ、サヨナラ。また今度!」

何となく気恥ずかしかったので、はじめは自分の口の中でもごもごとつぶやいていたのですが、数回もくり返せば、ひとしずくだけの歌ができてくるようで、たのしいことばのリズムが立ちあがってゆきました。何よりこうしていれば、一番びりけつではあるけれど、自分もみんなと同じく次の旅へ出かけられるのだと思え、心が逸るのでした。

ところが、そうこうしているうちに、ひとしずくはまた奇妙な気持ちになってゆき、ついには口につぐんで黙りこんでしまいました。「サヨナラ」と「また今度」を繰り返しているうち、これらの言葉がだんだんとまじないのように感じられ、よくわからなくなってしまったのです。

(サヨナラって誰に? また今度ってどこへ?)

この広い森の中で、小さなひとしずくが難しい顔をして考えこんでいるなんて誰が想像したでしょう。すぐそばにいるクマザサでさえ、未だ自分のことで精いっぱいだったので一滴分の悩みには全く気が付いていないばかりか、先ほどのひとしずくのリズミカルな歌ですら春風にかき消されて聞こえてはいませんでした。

(サヨナラってぼくに?また今度ってだれへ? みんながそう言ってどこかへ行ってしまったけれど、だからって本当かどうかはわからない。)

ひとしずくは、ぶるりと身震いしました。風が冷たかったからではありません。すっかりこわくなってしまったのです。自分のからだにまだ少しだけ残っている雪の華は、先刻よりも溶けてくずれているように見えました。兄弟たちは真っ白い六角形の結晶がすべて溶けきったとき、その直前にあのまじないを明るく唱えていなくなってゆきました。土壌にまっすぐ落ちて音もなく吸収されたものもいれば、残雪にぼそりと落ちるものもおり、あるいは朽葉にピンとはね返されたりして、そうしたかすかな水音は真上にいるひとしずくにも聞こえていました。ところが、兄弟たちの「サヨナラ」と「また今度」の続きはやっぱりわからないのです。何もわからないことに対して、自分を捧げるようなことは自分にはできないと思いました。けれどもそうかと言って、自分がこれからどうなるのか、その答えもわかりません。わからないからこそ、不安で仕方がありません。答えの出ない問いは、ただただ粗暴なだけの不安を掻き立てます。ひとしずくはずぶずぶと、無限に続く思考の渦巻きの中にだんだんと飲み込まれてゆきました。目の前にいた兄弟たちは、そのときを迎えるとスルンと形がなくなって透明な無になりました。その姿を思い出せば思い出すほど、「また今度」なんてウソだと思わずにはいられませんでした。

(でも、それがウソだとしたら、みんなはどこへ行ったんだろう?)

ひとしずくは泣きたくなりました。考えても考えても、結局いつも、答えの出ない、この恐ろしい疑問に引き戻されました。確かなことは、自分にもそのときが必ずやってきて、何か抗えない力によってあのように突然いなくなってしまうに違いないということだけでした。そう思うと、ひとしずくはとてもじゃないほど耐えられない気持ちになるのでした。

気付けば、わずかに残っている結晶のひとひらを除けば、ひとしずくのからだはもうすっかり、立派な「ひとしずく」といった体でした。葉を透かして射しこむ陽光が透明なからだに反射して、うららかな早春にふさわしい、とても可愛らしい小粒であります。ところが当のひとしずくにとって、残りわずかな雪の華の断片は、はっきりと目に見える自分の寿命のようでした。それを眼前にしながらじっと待っているなんて、とてつもなく恐ろしくてたまらない。ひとしずくは心底ふるえあがり、もし自分も兄弟たちと同じように一瞬でいなくなってしまうのなら、自分が目をつぶっているあいだに、一瞬のうちに起こってほしい、自分が知らないあいだにすべてが終わっていてほしいと願うのでした。

それからのひとしずくはただただぎゅっと目を閉じていました。もし彼が、人間のような拳をもっていたとしたら、握りしめていたでしょう。

またひとつ、自分のからだのどこかが溶かされくずれたことを感じました。ほろりとくずれたときの波紋がその都度自分のからだを伝い、ひとしずくを振わせます。

(もうすぐきっと、ぼくもいなくなるのだ。)

ひとしずくは予感しました。相変わらず目はかたくつぶったままでしたが、いかにおそろしさから自らを閉ざしていたとしても、多少の勇気は必要なのだと理解すると、恐れながらも自分のからだ一つ分の勇気を精いっぱいかき集め、覚悟を決めました。思考だけは尚もするどく冴えていたので、来るときのためになおさら、自分の心をととのえておかなければならない、とそう思ったのです。

一方でクマザサは、目覚めてからこっち、変わらず生の背伸びを恙なくたえまなく続けていました。しおしおとしていた茎や葉は、吸いあげた水分によってすみずみまで満たされぴんと張っており、根元から頭上まで力が漲るようでした。あと数呼吸もすれば、真っ直ぐ立ち上がることでしょう。クマザサにとって、自分の葉にいるひとしずくの小さな迷いは自分の細胞ひとつひとつほどは大したことではありませんでしたし、それどころか文字通り露ほども気が付いていなかったので、自分の本分を貫くだけでよかったのです。