カブの葉を切り落とす

祖父母の家を頻繁に訪れるようになってから、どれくらい経っただろう。まもなく二年になるだろうか。きっかけは、新型コロナウイルスのために何もかもが立ちゆかなくなってからだった。それで思いついたのだ。時間があるから、祖父母の手伝いでもしにゆこう。いつもは忙しく立ち去ってしまうから、と。

ふたりの生活が、あの時の、そして今の私のすぐとなりに在ってくれて本当によかった。

変わらなくてもいい生活。大地震があろうと、未曽有のウイルスが蔓延しようと、祖父母の生活は変わらない。無論、ラジオやテレビの報道によって、一連の重大さは知ってはいる。生活する手をはたととめて、あれこれと心配することもあっただろう。私たち家族も、二回のワクチン接種を終えるまでは必要以上に顔を出すことを避けていたから、来客もとんと減ったに違いない。けれど、それだけだ。ふたりには互いが互いのためにいればよい。よき話し相手として、よき生活を守り続ける親愛すべき同志として。

食べるものは、米もそばも豆類も野菜もすべて自分たちの畑から得られる。水も、山の小川からひいているから年中通して清水を得られる。料理をするにはガスを使うが、暖をとったり、お湯を沸かす程度であれば薪を使う。ところどころ電気は必要であるが、多分なくても生きていける。連絡手段が通じなくなるから周囲はやきもきするだろうが。

この生活は、私の夢だ。これから先も、世界では万の出来事が起こるだろうが、私や私たちの生活は変わらない。自然の中に身をおとして季節とともに生き長らえる不変の生活。

 

何という瞬間であったろう。先日、これらの憧れの生活と、自分の軀が五臓六腑と心ごと、ぴったりと合う経験をした。私はそのときカブと包丁を持っていて。

その日は、一日中祖母と過ごした日であった。そばのつくり方を一から教わる。前後して今年のそばの実を干し、日が暮れる前にまたしまう。数日後に味噌を仕込むからと、収穫してあった丸大豆の選別をする。虫にくわれていたり、腐りかけているものをはじく作業。それから、野菜の収穫。その大半は私が持ち帰って食べるため。春菊、パクチー、大根、白菜、さといも、かぶ。

葉ものはとっておいてやるから、かぶは自分でとってこいと言われた。祖父母の畑のどこに何があるか、完全には把握できていないが、かぶの畑はわかる。好物なので、前回も前々回も畑のかぶをもらっていたから。

履き古したスニーカーはいつの間にか土になじむ。いや、土の上を揚々と歩く私の脚によくなじむ。その足をまっすぐかぶ畑に向ける。闊歩カッポ。軍手をつけようか…?いや、今さらだ。

かぶ畑。といっても、とうもろこしと白菜に挟まれて畳一畳あるかないかの広さなのだが、私や祖父母の腹を満たすには十分すぎる収穫がある。足下にはもう、丸々とした白い大きなかぶが二つ三つと窮屈そうに並んでいる。その先も、そしてその目線のその先も。取り放題。さて、どれにしようか。なるべく大きく、でも大きすぎず。これと、これと、あとあのへんのかぶがいいだろうが。

収穫したかぶは、当たり前だが土まみれだ。一かぶの根元から生える葉茎は五本六本と旺盛にのび、私の膝丈よりも長い。炒めればかぶの葉もうまいが、これではかさばりすぎる。まだ祖母は見当たらない。かぶを手にして家の戸口へ戻る。片手に2、3こずつ、葉の先にぶら下がったかぶはごろごろとしてでかい。重い。ふるって適当に土をはらう。腕の先の遠心力でごんろごんろとぶつかり合う。

水でそそぐか。玄関の戸口外のながしには年中いつでも水がはってある。山の小川からひいてきた水。祖母はいつもここで野菜を洗う。私もそれに倣おう。かぶを放り入れる。ぶかりと水かさが増え、ながしから水があふれた。Tシャツの腹のあたりが濡れる。冷たい。構わない。そのまま両手を水に浸して、まんまるとしたかぶの土を落とす。童子の頬のふくらみを撫でるよう。果たすべき仕事はやり終えた、とでもいうように微塵の執着もなく、さらさらと土が落ちていく。真珠に似た、艶のある白のかたまりだけが私の手の中に残った。土からいただく気持ちになる。1,2、3,4,5つ。ありがとうございます。

さて、かぶの葉をどうしようか。少し逡巡する。もったいない、という言葉がある。根元から先っちょまで食べられるのに。けれども、しかし。冷蔵庫にいれるとかさばるよな、とか、自分の生活状況と保存環境を考える。ふむ、十センチほど残して切ってしまおう。

ながしは、母屋ではなく隣接する祖父の仕事場の壁そいに設えてある。その外壁に勝手よく道具たてのための板間がとりつけてあって、包丁がちょこんと収まっていた。私は利き手でそれを取り出して、左手につかんだかぶの葉をざっくりざっくり切り落とす。かぶはながしの水面にぷかぷかうかぶ。なんてうまそうなかぶ。必要なだけ手をかければ、ただの一植物が、食材として私の目の前に現れる。その瞬間。

ああ、これだ。と私は思った。私の生活のダイナミズムがでっかく目の前に立ち現れて。土に靴をよごし、水に手をさらし、植/食物と暮らす。この生き方を食おう。自分のこれからの糧にするために。
私は喜んで新たな生活の予感、その瞬間をごくんと一気に飲み干した。憧れはもはや放たれる。私は努めてこの生活を自分の普遍に引き寄せよう。