憧憬

私がこの地を「鹿の原」と呼ぶのは、何のことはない。鹿の通り道だから。ただそれだけである。

秋。灌木や藪が生い茂る鹿の原を視界いっぱいに見渡せば、鹿が踏み歩いた道が幾筋も縦横無尽に走っている。一頭だけのものではない。数頭、あるいは群れであれば十数頭は通っているのではなかろうか。

初めて鹿の原のけもの道に遭遇したのは夏だった。青空を背景にして、生命力あふれる青々とした若い草草が旺盛にのび、平原中に広がっている。しかし、それらのはちきれんばかりの漲りを平然となぎ倒し、しなりを無にして左右に分かち、根元から踏みしだき道を拓く獣がいる。野生の鹿。

ぶ厚い体躯。太い四肢。草いきれと新陳代謝の匂い。決して可愛いものではない。獣、である。けもの道にただよう気配から、鹿の姿が立ち現われて圧倒される。私の想像をはるかにこえ、巨きく重くどっしりとしている。頬をぶたれたような衝撃だ。突然自覚させられる。私は非力。頭でっかちに生きる、ちっぽけな人間に過ぎないことを。つるつるとした肌にくるまれた貧弱な二本足ではどう足掻いても、これほどの跡は残せまい。

いいのだろうか、私なんかが通っても。そう思ってしまった。人間、しかも鹿たちのように日々命を晒す生き方には縁遠い人間が、同じ世界に生きる同義の命の顔をして利用していい道なのだろうか。何だか厚かましくはないか。

そうして立ち往生をしている私の横を鉄砲玉のように駆け抜ける赤い塊がいる。私のフィールドワークの相棒。赤犬である。鹿の原は、赤犬の遊び場でもあるのだ。人間の私の何てことのない逡巡を差し置いて、あっという間に姿が見えなくなる。
赤犬は走る走る。走ることが喜びの犬。だが、主人の私はついて来ない。それに気づいて、すぐに遠くから私の元へ走ってくる。当然のように最短省エネ効率的な、鹿たちのけもの道を自然と選んでやってくる。走りやすく、スピードが乗るのだろう。舌を長くのばし、破顔しながら全速力で駆けてくる。

犬。人のそばに常におり、人の言葉をよく理解し、人の生活によくなじむ。この赤犬も然り。だが、そうだ。こいつも四本足の獣であり、鹿と同じくあちら側の世界も知るもの。

私がこの赤犬を好きな理由。四本足の権利よろしく、至極当然にけもの道にそって駆け回る。
私の憧憬をあっという間にかっさらっていく。その姿。