祖父の命日である。
私は朝のラジオを終えたその足で、そのまま祖父の墓参りに訪れた。
行きがけ、墓前に供える花を買いに顔なじみの花屋に立ち寄る。
今日は穂の名はお留守番?などと他愛のない会話。
道々で私を知る誰かに出会うたび他愛のない会話がくり返されてその度に、
私もこの町の一人として豊かに時間を重ねてきたことを思い知る。
肝心の花はどうしようか。
迷ったが、初夏にふさわしいミニチュアのひまわりを3本ずつ2対購入した。
濃い黄色のひまわりと、淡い黄色のひまわりを。
祖父が好きだったユリノキの花を墓前に挿せたら一番よかったが、
わが庭のユリノキは先月の始めに伐ってしまったし、
町中で殊あるごとに見上げていたユリノキの花の盛りもとうに過ぎてしまった。
ユリノキの花の色に一番近いひまわりで喜んでくれるとよいのだが。
寺に着けばまっすぐに墓へと向かう。いい天気。
先祖代々の墓の正面に立ち、手持ち桶から柄杓で水を掬って墓石にかける。
今日のような暑い日に、こうして水をかけてやることが子どもの頃から好きである。
ごくごくと美味しそうに飲んでくれている気がして。
墓前には既に、左右1組の花が供えられていた。
おそらく数日前に墓参りに訪れた両親や祖母によるものだと想像する。
数本の菊に、オミナエシとスターチス。
添えられる色はいかにもお供え用の花々である。
それで、私は急に自分が先ほど買ったばかりの溌剌と可愛らしいひまわりを
主役にしてやりたいと思いつく。
墓石の二対の花挿し口に水をたっぷり溢れさせるほどつぎ足して、
菊、オミナエシ、スターチス、そして私のひまわりを
音符を操るごとく明るく組み直す。私は編曲家。
他の花を押しやる自分の指先に子どものようなエゴと無垢な善意の二つを認めつつ、
さいごまで、ひまわりがバランスよくこちらに顔を向けることに苦心する。
そのさまさえ、どこか近くの草葉の陰から見られていると思えば面白い。
やがて、…よし。と頷く姿さえ仔細に見届けられていると思えば。
マッチも線香も持たずに来たので、
花だけをことばの便りとし、手を合わせる。
――私の近しい大切な家族がみんな(もちろん犬も)が健康でありますように。
――手術をした祖父の妹の予後が順調でありますように。
見守っていてください。それから……。
私は病床での祖父とのやりとりを思い出す。
当時、祖父は認知症になって久しく、心のやわらかな少年のようになっていて、
そして私は心が頑なな二十歳過ぎの娘であった。
見た目は硬質のままでありながら、中身は貝の肉のようにやわらかで
老いていよいよ心の誠実さだけが真珠のようにそそと輝いていた祖父を
私は心から頼りに、見栄も虚栄もほっぽいて甘えていた。
他に誰もいない祖父とだけ過ごす病室は、童話の中に出てくる、心のうちの秘密を曝露するための穴みたいだ。
「…〇〇に進みたいなあと思っている、んだ」
こう言ったとき、私の顔は拙い出来の能面以上に表情がなかったに違いない。
妄想も相まって膨らみ過ぎた社会生活の過酷さと、私に背負わされた未熟な未来と
自分の本心とのせめぎ合いから日々緊張していたから。
こうして口に出すことさえ、勇気が必要な年齢というのが誰にでもあるのだ。
祖父は、進路の内容どうのこうのはどうでもよろしいようであり、
ただ穏やかにこう言った。
「〇〇したいなあ、じゃなくて、〇〇するとだけ言いなさい」
ただの言霊の自己暗示でしかないのだが、今でも時折思い出しては自分の語尾に継ぎ足している。
だから、墓前であれどこであれ、祖父に話しかけるときには前向きな言葉で結ぶことにしている。
家族と、大叔母と、それから私のこと。
――私のこれからの道程もがんばります。
――応援していてください。
祖父の命日。