蝸牛

蝸牛

 

 

祖父母の家のからむし畑で真っ白いカタツムリの殻を見つけた。

雪が解けたばかりのからむし畑のからむしは、昨秋に短く刈り取られたままで葉も何もつけていなかったから、ただ地面にぶっ刺さった枯枝のようだった。切り口が太いストローのようであるから、どれがからむしであるかはすぐわかるのだが、どちらかというとからむしの生育を見るというより、何にも覆われることなく剥き出しになった土を見に行ったようなものだ。その荒れた黒土の上にひとり、端正な白さを己が美として誇るかのようにその殻はあったのである。

私はその渦巻に吸い寄せられるようにしゃがみこみ、しばらく黙々と眺め思案に耽っていた。

以来どういうわけだか、すっかり筆がとまってしまった。

書くことを私の由とし、日々のつれづれの邂逅を書き留めてはそれなりに心の幸福を覚え始めたさなかのことだった。どうしてだかこの渦巻を前にして、嘘の言葉は書けない気がした。私の中で、何かひっかかりが生まれたのだ。二月の終わりのことである。

 

私はポケットからスマホを取り出しその殻を写真に収めた。

そして事あるごとに写真のフォルダをひらいては、またあの時のように対峙した。

 

この無着なる無機物は、私に向かって「ワタシをよめ」と言っている。

ワタシ、というのはカタツムリの殻そのひとである。

 

ヤドカリとは違い、この真っ白い殻は宿主が去ったあとの仮宿ではない。

言うなれば、カタツムリの死骸である。

だが不思議なことに、この殻はそういった「知識」は一切私の口に語らせない。

ただ目の前の対象、その存在感だけですべてを物語り、

それに足る隠然とした貫禄を備えているのである。

 

完璧なる自然現象のオブジェクト。

それが私の目の前に現れて、ただ対等に「ワタシをよめ」と言っている。

 

だから私もそれに従うことにした。

あなたがカタツムリだろうが、畢竟一万年前の生物の化石だろうが興味はない。

ただその存在感を以って私に語りかけてきたことが重要なのだ。

 

とはいえ、「ワタシをよめ」とはどういうことだ。

 

私は渦巻をまなざし、そして読もうとする。

 

自然界の渦巻。黄金律。無限に尽きることがなく、終わりはこない。どこまでも、永遠に。

いつだか読んだ本の中の小ネタが頭に思い浮かんだ。

 

外縁からぐるぐると左まわりに中心へと向かう。

殻は殻である限り、この螺旋はその中央で終わるわけだが、

渦巻だけを見ればどこまでもどこまでもどこまでも続くらしい。

 

つまり、からむし畑の土壌を深く掘り進み、いつしか地球の核まで届くとでもいうのだろうか。本当だろうか。

それほどの規模になるとイメージが追いつかなくなるので、私は想像力を手放した。

 

「ワタシをよめ」

 

私にはただ、この渦巻が進めば進むほど、その向かう先の闇が深く色濃く感じるばかりである。

 

いつしか私はその渦巻の中を歩く。

暗いが容易い。両手をひらいて、カルシウム質の壁に手をあてながら進む。

渦巻の向こう、穴の闇の深淵は、私にとってそれほどおそろしいところではない。

かつて憧れた心地よさがある。

私しか知らぬたどり着けぬ真理を見たいがために歩を進める感覚に近く。

それは未知が長く続けば続くほどいい。死ぬまで飽きずに済む知りたいことがある。

 

と、ここで私は我に返った。

 

私は何を知りたかったんだっけ?

深く深く、何を掘り下げたかったのだっけ?

 

2011年3月11日のあの日から、ずっと知りたかったことがあったのではなかったか。

 

そうだ、あの時以来、3月になると私の情緒はいつも堰をきって

あらゆる方向、次元の異なるアンテナの数々からたくさんのものを拾い上げる。

 

そして足元にカタツムリの殻。渦巻の深淵の先。

ああ、そうか。

 

自然と人間の関係、これを私だけの表現で言葉にしたいと思っていたのだ。

その最良の形を知るために。

 

「そう、それだ。」

 

と言われた気がした。

私がのぞきこんだ深淵の奥から。

 

 

おそらくは、今日この文章がひとつの形になるのだろう。

 

「ワタシをよめ」

 

山川草木、風、鉱物。

これらの声に、言葉に、あるいは文字に、耳を傾ける。

自然の中に身をおきながら、同じく語ることばをもつ人間として。

 

私は再び筆をとろう。